教皇フランシスコの2014年3月2日の「お告げの祈り」のことば 神の摂理

教皇フランシスコは、年間第八主日の3月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第八主日の3月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は、緊迫するウクライナ情勢に関して次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
 微妙な状況に置かれたウクライナのために祈り続けてくださるようお願いします。ウクライナの当局者全体が誤解を乗り越え、ともに国家の未来を築くために努力することを願うとともに、国際社会に心から呼びかけます。対話と一致を推進するためのあらゆる取り組みを支えてください」。
ウクライナでは2月22日、ヤヌコーヴィチ大統領が首都キエフを脱出して政権が崩壊、最高会議は23日にトゥルチーノフ議長を大統領代行に選出しました。その後ロシアは3月1日、プーチン大統領がウクライナへの軍事介入に関する上院の同意を得、クリミア半島を軍の支配下に置いています。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 わたしたちは今日の主日の典礼の中心に、もっとも慰めに満ちた真理を見いだします。神の摂理です。預言者イザヤは、優しさに満ちた母の愛のイメージをもってこのことを示していいます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子をあわれまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)。なんとすばらしいことでしょう。神はわたしたちを、わたしたちの一人ひとりを決して忘れません。神はわたしたちの一人ひとりの氏名を忘れません。神はわたしたちを愛し、忘れません。なんとすばらしい考えでしょう。……この神に対する信頼への招きは、マタイによる福音書の箇所のうちに並行する箇所を見いだします。イエスはいいます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、いっておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・26、28-29)。

 ところで、不安定な状態の中で、そればかりか、自らの尊厳を侵すような悲惨な状態の中で暮らす人々のことを考えると、このイエスのことばは、幻想とはいえないまでも、抽象的に思われるかもしれません。しかし、それは実際にはきわめて現実的です。それはわたしたちに、神と富という、二人の主人に仕えることができないことを思い起こさせます。すべての人が自分のために富を蓄えようとするなら、正義は存在しません。わたしたちはこのことをよく考えなければなりません。すべての人が自分のために富を蓄えようとするなら、正義は存在しません。しかし、神の摂理に信頼し、ともに神の国を求めるなら、そのとき、だれも尊厳ある暮らしをするために必要なものにこと欠きません。

 所有への欲望でいっぱいになった心は、所有への欲望で満たされてはいても、神については空虚です。そのためイエスは金持ちに何度も勧告しました。金持ちは、この世の富のうちに安全をゆだねる恐れがあるからです。しかし、安全、それも決定的な安全は、神のうちにあります。富に捕らわれた心には、信仰のための場所がほとんどありません。すべては富で占められ、信仰のための場所がありません。しかし、神に神の場所、すなわち第一の場所を与えるなら、そのとき、神の愛が、富を分かち合い、連帯と発展の計画のために役立てるように導きます。現代においても教会史の中で多くの模範が示すとおりです。こうして神の摂理は、わたしたちの他者への奉仕を通して、他者との分かち合いを通して示されます。わたしたちがおのおの、自分のためだけに富を蓄えるだけでなく、それを他者に奉仕するために用いるなら、そのとき神の摂理はこの連帯の行為のうちに目に見えるものとなります。しかし、だれかが自分のためだけに富を蓄えるなら、その人が神に招かれたとき、どうなるでしょうか。その人は富を携えて行くことができません。ご存じのとおり、死体を包む布にポケットはないからです。分かち合うことのほうがよいのです。なぜなら、わたしたちは他者と分かち合ったものだけを天に携えて行くからです。

 イエスが示す道は、普通の考え方や経済危機の問題に対してあまり現実的でないように思われるかもしれません。しかし、よく考えるなら、この道はわたしたちを正しい価値基準へと導いてくれます。イエスはいいます。「いのちは食べ物よりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか」(マタイ6・25)。だれもパンと水と衣服と家と仕事と健康にこと欠かないようにするためには、わたしたち皆が互いを、天におられる父の子、それゆえ兄弟として認め、そのように行動しなければなりません。わたしはこのことを1月1日の「『世界平和の日』メッセージ」で思い起こさせました。平和への道は兄弟愛です。兄弟愛とは、ともに歩むこと、ものをともに分かち合うことです。

 今日の主日の神のことばに照らされながら、神の摂理の母であるおとめマリアに祈り求めようではありませんか。わたしたちはマリアに、わたしたちの生活と、教会と人類の歩みをゆだねます。とくに、わたしたち皆が、もっとも困窮する兄弟の必要に注意深く目を向けながら、質素な生活様式を送るために努めるよう、マリアの執り成しを祈りたいと思います。

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