教皇フランシスコの2014年3月9日の「お告げの祈り」のことば イエスの誘惑

教皇フランシスコは、四旬節第一主日の3月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、四旬節第一主日の3月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

なお、この日の午後6時から、教皇と教皇庁の黙想会が始まりました。黙想会はアリッチャ(ローマ県)のカーサ・ディヴィン・マエストロ(聖パウロ修道会の黙想の家)で、ローマ、サン・マルコ・エヴァンジェリスタ・ア・カンピドリオ小教区のアンジェロ・デ・ドナティス神父の指導で行われます。黙想会は3月14日(金)午前に終了します。今年の黙想会のテーマは「心の清め」です。黙想会中、3月12日の一般謁見を含めたすべての教皇謁見は行われません。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 毎年、四旬節第一主日の福音は、イエスの誘惑についての記事を示します。ヨルダンでの洗礼の後、聖霊は、イエスの上に降ると、公的な宣教を始める前に荒れ野で四十日間公然とサタンに立ち向かうようにイエスを導きます。

 誘惑者はイエスを御父の計画から、すなわち、罪のあがないのために自分をささげる犠牲と愛の道から引き離し、成功と権力を求めるやさしい道をとらせようとします。イエスとサタンの決闘は、聖書の引用の打ち合いによって行われます。実際、悪魔は、イエスを十字架から引き離すために、偽りのメシア的希望を彼に示します。すなわち、石をパンに変える力によって示される、経済的な繁栄。エルサレム神殿の頂点から飛び降り、天使に救ってもらうという考えによる、見世物的、奇跡的なスタイル。そして最後に、サタンを拝む代わりに手に入る、権力と支配への近道です。わたしたちもこれらのものをよく知っています。

 イエスはこうした誘惑をきっぱりと退け、罪や世の思いといっさい妥協することなく、御父の定めた道に従うゆるぎない望みをあらためて主張します。イエスのこたえ方によく注意してください。イエスは、地上の楽園でエバがしたように、サタンと対話することはしません。イエスは、サタンと対話することができないことをよく知っておられます。サタンはずる賢いからです。だからイエスは、エバがしたように対話する代わりに、神のことばのうちに逃れることを選び、神のことばの力をもってこたえます。このことを心に留めてください。誘惑のとき、すなわち、わたしたちがさまざまな誘惑を受けるとき、サタンと議論してはなりません。むしろ、つねに神のことばによって身を守ってください。そうすればわたしたちは救われます。主はサタンへの答えの中で、神のことばを用いながら、何よりもまず、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4・4。申命記8・3参照)ことをわたしたちに思い起こさせます。これがわたしたちに力を与え、この世的な考え方と戦うわたしたちを支えます。この世的な考え方は、人を基本的な必要のレベルにまで落とし、真理と善と美への飢えを、すなわち神とその愛への飢えを失わせます。さらに主は、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)ことを思い起こさせます。信仰の道は暗闇と疑いを通り、忍耐と粘り強い期待によって養われるからです。最後にイエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)ことを思い起こさせます。すなわち、わたしたちは偶像やむなしいものから遠ざかり、自分の生活を根本的なものの上に築かなければなりません。

 これらのイエスのことばは、やがて彼の行為によって具体的に確認されます。御父の愛の計画に対する絶対的な忠実は、約三年後に、受難と十字架のときの、「この世の支配者」(ヨハネ16・11)による最終的な報復へとイエスを導くことになります。そしてイエスはそこで決定的な勝利、すなわち愛の勝利を収めます。

 親愛なる兄弟の皆さん。四旬節はわたしたち皆にとって、回心の道を歩み、福音のこの箇所に真剣に向き合うための貴重な機会です。自分の洗礼の約束を更新しようではありませんか。悪霊(サタン)とその働きといざないを退けようではありませんか――悪霊こそがいざなう者だからです――。そして、神の小道を歩んで、「霊の喜びのうちに復活祭に至ることができますように」(A年四旬節第一主日の集会祈願)。

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