教皇フランシスコの2014年4月6日の「お告げの祈り」のことば ラザロの復活

教皇フランシスコは、四旬節第五主日の4月6日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、四旬節第五主日の4月6日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、終わりに教皇はイタリア語で次のように述べました。
「ラクイラとその周辺地域を地震が襲ってからちょうど5年経ちました。このときにあたり、ラクイラの共同体と心を一つに合わせたいと思います。彼らは深く苦しみ、また今なお苦しみながら、神と聖母への深い信頼をもって戦い、希望しています。すべての犠牲者のために祈りたいと思います。彼らが主の平安のうちに永遠に生きることができますように。ラクイラの住民の復活への歩みのためにも祈りたいと思います。連帯と霊的な再生が物質的な復興の力にもなりますように。
 ギニアと隣接諸国で増加しているエボラウイルスの犠牲者のためにも祈りたいと思います。主が、この伝染病の始まりと戦い、困難のうちにあるすべての人を介護し支援する努力を支えてくださいますように。
 さて、今、皆さんにささやかなことをさせていだきたいと思います。これまでの主日に、わたしは皆さんに、小型の聖書をもち、一日中それを携帯して、しばしば読むようにお勧めしました。それからわたしは、四旬節の間に洗礼志願者、すなわち洗礼を受ける準備をしている人々に福音書を授与するという、教会の古来の伝統を思い出しました。そこで今日わたしは広場におられる皆さんに――しかし、すべての人に向けたしるしとして――ポケット聖書を配布します。これは無償で配布されます。広場の中に配布場所を設けています。そちらと、そちらと、そちらに見えます。配布場所に行って、福音書をお受け取りください。受け取ったら、携帯して、毎日読んでください。そこで皆さんに語りかけるのはイエスご自身なのです。それはイエスのことばです。そして、イエスがいわれたとおり、ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ10・8参照)。福音のメッセージを与えなさい。皆さんの中には、これが無償だと思わない人がおられるかもしれません。『いくらですか。神父様、いくら払わなければなりませんか』。一つのことをしてください。この贈り物の代わりに、一つの愛のわざをしてください。一つの無償の愛の行為、敵のために祈ること、和解のわざをしてください。何でも結構です。現代では多くのテクノロジーを用いて福音書を読むことができます。電話の中に、タブレットの中に、聖書全巻を入れて持ち歩くこともできます。あらゆる手段を用いて神のことばを読むのは大切なことです。けれども、神のことばを読んでください。そこでわたしたちに語りかけてくださるのはイエスなのです。そして、心を開いて神のことばを受け入れてください。そうすれば、よい種は実を結びます」。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 今日の四旬節第五主日の福音は、ラザロの復活を物語ります。これはイエスがなさったさまざまな奇跡的な「しるし」の頂点をなします。それは、大祭司たちが許すことができないほど、偉大で明白なしかたで神的なわざです。彼らはこのことを知ると、イエスを殺そうと決めました(ヨハネ11・53参照)。

 ラザロは、イエスが到着したとき、すでに死後三日経っていました。するとイエスは姉妹のマルタとマリアに向かって、キリスト教共同体の記憶に永遠に刻まれることになることばを述べます。イエスはいいます。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・25)。この主のことばに基づいて、わたしたちは信じます。イエスを信じ、イエスの命令に従う人のいのちは、死後、新たな、完全で、不死のいのちへと造り変えられると。イエスはご自分のからだとともに復活しましたが、地上のいのちに戻ったのではありませんでした。それと同じように、わたしたちも自分のからだとともに復活しますが、そのときわたしたちのからだは栄光のからだに造り変えられるのです。イエスは御父のもとでわたしたちを待っておられます。そして、イエスを復活させた聖霊の力は、イエスと一つに結ばれた人々をも復活させるのです。

 ふさがれていた友人ラザロの墓の前で、イエスは「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」(43-44節)。この断固とした叫び声は、すべての人に向けられています。なぜなら、わたしたちは皆、死によって特徴づけられているからです。それは、いのちの主であり、すべての人が「いのちを豊かに受ける」(ヨハネ10・10)ことを望まれるかたのみ声です。キリストは、わたしたちが悪と死の選択と、過ちと罪によって築いた墓に屈服しません。イエスはこのようなものに屈服しません。イエスはわたしたちを招きます。いわば命令します。自分たちの罪が自分自身を葬った墓から出て来なさいと。イエスはわたしたちをしつこく呼びます。自分を閉じ込め、偽りの、利己主義的な、生ぬるい生き方で満足させる牢獄の暗闇から出て来なさいと。「出て来なさい」。イエスはわたしたちにいいます。「出て来なさい」。それはまことの自由へのすばらしい招きです。今日もわたしたち一人ひとりに繰り返し語られる、このイエスのことばに捕らえていただくことへの招きです。それは、高慢の「布」から解放されることへの招きです。高慢はわたしたちを奴隷にするからです。自分自身の奴隷、多くの偶像の奴隷、多くのことがらの奴隷にするからです。わたしたちの復活はここから始まります。このイエスの命令に従おうと決意し、光といのちへと出て行こうとするとき、自分の顔から仮面が剥がれ落ちるとき――わたしたちはしばしば罪の仮面をかぶっているので、この仮面は剥がれ落ちなければならないのです――、そのときわたしたちは、神の像と似姿として造られた、自分の本来の顔のもつ勇気を再発見します。

 ラザロを復活させたイエスのわざは、神の恵みの力がどれほどのところにまで及ぶか、それゆえ、わたしたちの回心と変化がどこまで行けるかを示します。けれども、よくお聞きください。すべての人に示される神のあわれみには、まったく限界がありません。すべての人に示される神のあわれみには、まったく限界がありません。ご一緒に繰り返していいましょう。「すべての人に示される神のあわれみには、まったく限界がありません」。主はいつも、わたしたちを生ける者の光である主から引き離す、わたしたちの罪という墓の石を、進んで取り除こうとしておられます。

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