教皇フランシスコ、2014年4月9日の一般謁見演説:上智のたまもの

4月9日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖霊のたまもの」(『カトリック教会のカテキズム』1830-1832、『カトリック教会のカテキズム要約』389参照)に関する新たな連続講話を開始し、第1回として「上智」について解説しました。以下はその全訳です。
謁見の終わりに、教皇は、4月7日(月)にシリアのホムスでイエズス会のフランス・ファン・デル・ルフト神父(75歳)が殺害されたことを受けて呼びかけを行いました。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日から聖霊のたまものに関する新しい連続講話を始めます。ご存じのとおり、聖霊は、教会とすべてのキリスト信者の生きた血液、魂をなしています。聖霊は神の愛です。この愛は、わたしたちの心をその住まいとし、わたしたちとの交わりのうちに歩み入ります。聖霊はつねにわたしたちとともに、わたしたちのうちに、わたしたちの心の中におられます。

 聖霊そのものが優れた意味で「神のたまもの」(ヨハネ4・10参照)です。聖霊は神の贈り物です。そして聖霊も、ご自分を受け入れる人にさまざまな霊のたまものを与えます。教会は、このたまものが七つあるといいます。七は完成と実現を象徴的に表す数です。わたしたちはこのたまものについて、堅信を準備するときに学びます。そしてこのたまものを、「聖霊の続唱」という古くからある祈りの中で祈り求めます。聖霊のたまものとは、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬です。

 1 それゆえ、このリストによれば、聖霊の第一のたまものは上智(sapienza)です。しかし、上智とは、単なる人間的な知恵ではありません。それは知り、体験することからもたらされます。聖書は語ります。ソロモンは、イスラエルの王とされる際に、知恵のたまものを願いました(列王記上3・9参照)。彼が願った知恵とは、すべてのことを神の目をもって見ることのできる恵みです。それは単純に、神の目をもって、世界とその状況、ありさま、問題のすべてを見ることです。これが上智です。わたしたちは時として、自分の好みや心の状態、すなわち愛と憎しみ、嫉妬などに従ってものごとを見ます。しかし、これは神の目ではありません。上智とは、すべてのことを神の目をもって見ることができるようにする、聖霊のわたしたちの中での働きです。
 

 2 いうまでもなく、上智は神との親しい関係からもたらされます。わたしたちが神と親しい関係をもつこと、御父と子としての関係をもつことからもたらされます。わたしたちがこのような関係をもつとき、聖霊はわたしたちにこの上智のたまものを与えてくださいます。わたしたちが主との交わりのうちにあるとき、聖霊はいわばわたしたちの心を造り変え、ご自分のぬくもりとわたしたちへの愛を余すところなく感じさせてくださるのです。

 3 こうして聖霊はキリスト信者を「知恵ある者」とします。しかしそれは、キリスト信者がすべてのことに対して答えをもっているとか、すべてを知っていることを意味するものではありません。「知恵ある者」であるとはむしろ、神について「知っている」こと、神がどのように行われるかを知っていること、何が神に由来し、何が神に由来しないかをわきまえることです。「知恵ある者」は、神がわたしたちの心に与えてくださる、このような知恵をもっているのです。その意味で、知恵ある人の心は、神を味わい知ることができるといえます。わたしたちの共同体の中にこのようなキリスト信者がいることは、とても大切なことです。このような人々において、すべては神について語り、神の現存と愛のすばらしい生きたしるしとなります。これはわたしたちが造り上げられるものでも、自力でもたらせるものでもありません。それは、聖霊に聞き従う人に神が与えてくださるたまものです。わたしたちのうちに、すなわちわたしたちの心のうちには聖霊がおられます。わたしたちが聖霊に耳を傾けるなら、聖霊はわたしたちにこの知恵の道を教えてくださいます。上智を与えてくださいます。すなわち、神の目をもって見、神の耳をもって聞き、神の心をもって愛し、神の判断をもって判断することができるようにしてくださいます。これが、聖霊がわたしたちに与えてくださる上智です。わたしたちは皆、上智をもつことができますし、聖霊に上智のたまものを与えてくださるよう願わなければなりません。

 家に何人かの子どもがいるお母さんのことを考えてみてください。一人のこどもが何かをすれば、もう一人は別のことを考えます。かわいそうなお母さんは子どもたちの問題を抱えて、ここかしこと走り回ります。しかし、お母さんが疲れて、子どもたちを叱りつけるのが、上智でしょうか。皆さんに尋ねます。子どもたちを叱りつけることは上智でしょうか。聞かせてください。それは上智でしょうか、それとも違うでしょうか。もちろん違います。しかし、お母さんが子どもを抱いて、優しく「こんなことをしてはいけませんよ。なぜなら……」といって諭し、忍耐強く説明するなら、それは神の上智ではないでしょうか。そのとおりです。それこそが、聖霊が生活の中でわたしたちに与えてくださるものです。また、たとえば結婚において、夫婦――夫と妻――が喧嘩すると、互いに相手のほうを見向きもしません。あるいは、見ても、しかめ面でしか見ません。これが神の上智でしょうか。いいえ、違います。しかし、「嵐は過ぎました。仲直りしましょう」といって、再び仲良く前に歩み始めるなら、それは上智でしょうか。そうです。これこそが上智のたまものです。どうか上智が、家庭に、子どもたちに、わたしたち皆に与えられますように。

 わたしたちはこのたまものを習得するのではありません。それは聖霊が与えてくださる贈り物です。ですからわたしたちは、聖霊が与えられるよう、また上智のたまものが与えられるよう、主に願わなければなりません。この神の知恵は、神の目をもって見、神の心をもって聞き、神のことばをもって語ることを教えてくれるのです。こうしてわたしたちは、この上智により、前に進み、家庭と教会を築き、皆が聖なる者とされます。今日、上智の恵みを願い求めましょう。上智の座である聖母に、このたまものを祈り求めましょう。あなたの助けによって、この恵みをお与えください。


謁見の終わりに、教皇は、4月7日(月)にシリアのホムスでイエズス会のフランス・ファン・デル・ルフト神父(75歳)が殺害されたことを受け、イタリア語で次の呼びかけを行いました。

「今週の月曜日、シリアのホムスで、75歳のオランダ人のわたしの同僚のイエズス会員であるフランス・ファン・デル・ルフト神父が殺害されました。彼は約50年前にシリアに行き、つねに無償の愛をもってすべての人のために働きました。そのため彼はキリスト教徒からもムスリムからも敬愛されていました。
彼が残酷なしかたで殺害されたことはわたしを深い悲しみで満たし、わが愛する殉教の国シリアで苦しみ、亡くなる多くの人々のことをあらためて考えさせました。シリアはすでに長い間、死と破壊をもたらし続ける流血の紛争で苦しんでいます。キリスト教徒とムスリム、シリア人とシリア以外の国の人を含めた、多くの誘拐された人々のことも思います。その中には、司教や司祭もいます。彼らが愛する人や家族・共同体のもとに速やかに帰れるよう、主に祈り願いましょう。
シリアとその周辺地域の平和のためにわたしとともに祈ってくださるよう、すべての人に心からお願いします。そしてわたしは、シリアの政治指導者と国際社会に悲しみに満ちた呼びかけを行います。どうか武器を捨て、暴力を終わらせてください。戦争も破壊もなくなりますように。人権が尊重され、人道支援を必要とする人々に手が差し伸べられ、対話と和解を通じて、人々が待ち望む平和が実現しますように。シリアのためにこのようなたまものが与えられますよう、平和の元后である聖母マリアに祈ります。ご一緒に祈りましょう。アヴェ、マリア……」。

PAGE TOP