教皇フランシスコ、2014年5月7日の一般謁見演説:賢慮のたまもの

5月7日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月9日から開始した「聖霊のたまもの」に関する連続講話の第3回として、「賢慮」について解説しました。以下はその全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 詩編の箇所の朗読を聞きました。この箇所はこう述べます。「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(詩編16・7)。これが聖霊のもう一つのたまものである、賢慮のたまものです。わたしたちは、微妙なときに、知恵に富み、わたしたちのためになることを望む人の助言を当てにするのがどれほど大切かを知っています。ところで、賢慮のたまものを通じて、神ご自身が、ご自分の霊とともに、わたしたちの心を照らし、語り、行動する正しいしかたと、進むべき道をわたしたちに悟らせてくださるのです。しかし、この賢慮のたまものはわたしたちのうちでどのように働くのでしょうか。

 1 心に賢慮のたまものを受け、迎え入れるとき、聖霊はすぐにわたしたちが聖霊の声を聞くことができるようにし、わたしたちの考え、感情、意図を神のみ心に従って方向づけ始めます。同時に聖霊は、わたしたちの内的な目をますますイエスへと向かわせます。イエスは、わたしたちの行動のしかたと、父である神と兄弟とのかかわり方の模範だからです。それゆえ賢慮とは、聖霊がわたしたちの良心に、イエスと福音の論理に従って神との交わりのうちに具体的な決断をできるようにするためのたまものです。こうして霊はわたしたちをますます内的に、積極的なしかたで、共同体の中で成長させ、わたしたちが利己主義と自分のものの見方の力に屈しないように助けます。こうして霊は、わたしたちが成長し、また共同体の中で生活するのを助けてくださいます。賢慮のたまものを守るために不可欠の条件は、祈りです。わたしたちはつねに、この祈りという同じテーマに立ち戻ります。しかし、祈りはきわめて大切なのです。わたしたち皆が子どものときから知っている祈りで祈るだけでなく、自分のことばで祈ってください。主にこう祈ってください。「主よ、わたしをお助けください。わたしを諭してください。今わたしはどうすればよいでしょうか」。わたしたちは祈ることにより、霊がこのときにわたしたちを助けに来て、わたしたちが皆、何をすべきかを諭してくださるための場を空けます。祈ること。決して祈ることを忘れてはなりません。わたしたちがバスの中や、道で祈っていても、心の中で沈黙のうちに祈っていても、決してだれも気づきません。このようなときを祈るために用いましょう。霊が賢慮のたまものを与えてくださるように祈りましょう。

 2 神と親しくかかわり、みことばに耳を傾けることにより、わたしたちは少しずつ自分の個人的な考え方――それは閉ざされた心、偏見、野心に支配されています――を脇に置き、むしろ主に問いかけることを学び始めます。あなたの望みは何でしょうか。あなたのみ心は何でしょうか。み心に適うことは何でしょうか。こうしてわたしたちのうちに、いわば霊と同調した深い一致がますます成長します。そしてわたしたちは、マタイによる福音書に記されたイエスのことばが真実であることを体験します。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ10・19-20)。
わたしたちを諭してくださるのは霊です。しかし、わたしたちも、霊がわたしたちを諭してくださることができるように、霊に場を空けなければなりません。そして、場を空けるとは、祈ることです。霊がいつもわたしたちを助けに来てくださるように祈ることです。

 3 他の霊のたまものと同じように、賢慮もキリスト教共同体全体にとっての宝です。主はわたしたちの心の奥底で語りかけてくださるだけではありません。たしかに主はわたしたちに語りかけてくださいますが、それは心の奥底でのみなされるのではありません。むしろ主は、兄弟の声とあかしを通してもわたしたちに語りかけます。とくに人生のもっとも困難で大切なときに、わたしたちの心を照らして、主のみ心を知るのを助けてくれるような人と出会うことができるのは、本当に大きな恵みです。
(ブエノスアイレスの)ルハンの巡礼所の告白場にいたときのことを思い出します。告白場の前には長い列ができていました。そこには、イヤリング、タトゥーなどをつけた、きわめて現代的な若者もいました。この若者が来て、自分の身に起きていることをわたしに話しました。それは大きな、深刻な問題でした。彼はわたしにいいました。「わたしはこのすべてを母に話しました。すると母はこういいました。聖母のもとに行きなさい。聖母が何をすべきか、お前にお話しくださいますと」。これが、賢慮のたまものをもった女性です。彼女は息子の問題を解決する方法を知りませんでしたが、正しい道を示しました。聖母のもとに行きなさい。聖母が何をすべきか、お前にお話しくださいます。これが賢慮のたまものです。この素朴で単純な女性は、まことの助言を息子に与えたのです。実際、その若者はわたしにいいました。「わたしは聖母に目を向けました。すると、自分がこれこれのことをすべきだと感じました」。わたしは話す必要がありませんでした。母親と若者自身がすでにすべてを語っていたからです。これが賢慮のたまものです。賢慮のたまものをおもちの母親の皆さん、息子たちのためにこのたまものが与えられるように願ってください。息子に助言するたまものは、神のたまものです。
親愛なる友人の皆さん。わたしたちが耳にした詩編16は、次のことばをもって祈るようわたしたちを招きます。「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(7-8節)。霊がつねにわたしたちの心にこの確信を注ぎ、その慰めと平安でわたしたちを満たしてくださいますように。賢慮のたまものをつねに祈り願ってください。

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