教皇フランシスコの2014年6月1日の「アレルヤの祈り」のことば 主の昇天

主の昇天の祭日の6月1日正午、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場を埋め尽くす大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を行いました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です(原文イタリア語)。 「ア […]

主の昇天の祭日の6月1日正午、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場を埋め尽くす大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」を行いました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です(原文イタリア語)。

「アレルヤの祈り」の後、教皇は次のように呼びかけました。
「ウクライナと中央アフリカ共和国では、いまだに緊迫した状況が続いています。わたしはそのことに心を痛め、犠牲者のために祈ります。そして関係者すべてに対し、誤解を解消し、忍耐をもって対話と和解を目指すよう再度、呼びかけます」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 イタリアと他の国々では、主の復活の主日から40日目の主の昇天が、今日、祝われます。使徒言行録には、主が弟子たちとこの世から最後に別れた様子が記されています(使徒言行録1・2、9参照)。一方、マタイによる福音書には、「行って、すべての民に救いの知らせを告げ知らせない」という主の弟子たちへの命令が記されています(マタイ28・16-20参照)。この祭日の鍵となるのは、「行きなさい」ということばです。むしろ「出発する」といったほうがいいかもしれません。イエスは御父のもとに行かれます。そして、弟子たちには世界に向けて出発するよう命じたのです。

 主は天に昇って行かれました。ご自分をこの世につかわした御父のもとに戻られたのです。主はご自分の務めを果たし、御父のもとに戻ります。しかし、これは別れではありません。主は新しい形で、永遠にわたしたちのもとに留まっておられます。復活した主は、ご自分が天に昇ることを通して使徒たちの目を、そしてわたしたちの目を天の高みに向けます。それは、わたしたちの旅の到達点は御父であることを示すためです。主は「行ってあなたがたのために場所を用意する」と言いました。しかし、イエスはご自分の霊の力と恵みをもって、人間の歴史の中に生きています。たとえ目に見えなくても、主はわたしたち一人ひとりのすぐそばにいます。主はそこにおられます。そして、わたしたちに寄り添い、導いてくださいます。わたしたちが倒れたときには、手を取って起こしてくださいます。復活したイエスは、迫害され、差別されているキリスト者、苦しんでいる人の隣におられます。今日もイエスは、この広場にいるわたしたち皆のすぐそばにいます。主はわたしたちと一緒です。皆さんはこのことを信じますか。それでは、一緒に唱えましょう。「主はわたしたちと共におられます」と。

 イエスは、天の御父のもとに帰るときに贈り物を持って行きました。その贈り物は何でしょうか。それはご自分の傷です。イエスのからだは、あざもむちの跡もなく美しかったのですが、傷は残っていました。御父のもとに戻ったとき、イエスはその傷を見せてこう言います。「父よ、これがあなたがお与えになったゆるしの代償です」。御父はイエスの傷を見て、わたしたちを常にゆるします。それは、わたしたちが良いからではなく、イエスがわたしたちのためにあがなってくださったからです。御父は、イエスの傷を見て、さらに慈しみ深くなられます。これが、イエスが今、天国でしておられる偉大なわざです。御父は、ゆるしの代償であるイエスの傷を見ておられます。この良いわざのおかげで、わたしたちは恐れずにゆるしを求めることができるのです。御父はいつもゆるしてくださいます。なぜなら、御父はイエスの傷を見て、わたしたちの罪をたどり、それらをゆるしてくださるからです。

 一方、イエスは教会にもおられます。イエスは、ご自分の使命を果たし続けるために教会をつかわしました。使徒たちに向けたイエスの最後のことばは、出発を促す命令です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。これは明らかに命令です。任意の選択ではありません。キリスト教共同体は、「出かける」共同体、「出発する」共同体です。しかも、教会は「出かける」ことによって誕生しました。皆さんはこう尋ねるかもしれません。それでは観想修道会はどうなるのでしょうか。そうです。彼らも、祈りを通して、世界に開かれた心でいつも神の地平に「出かけて」います。高齢者や病者はどうでしょうか。彼らも祈りとイエスの傷との一致を通して、「出かけて」いるのです。

 イエスは宣教する弟子たちにこう言います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28・20)。イエスが一緒でなければ、わたしたちだけでは何もできません。わたしたちの使徒職のためには、自分の力、資源、組織が必要ですが、それだけでは不十分です。主がいなければ、また、主の霊の力がなければ、わたしたちの働きは、たとえそれがどんなに組織化されていようとも、何の役にも立ちません。ですから、わたしたちは、人々にイエスを告げ知らせるために出かけるのです。

 母なるマリアも、イエスと共にわたしたちのそばにおられます。天の元后であるマリアは、すでに御父の家におられます。ですから、今、マリアに願い求めましょう。イエスと共にわたしたちに寄り添い、わたしたちの希望の母となってくださいますように。

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