教皇フランシスコの2014年6月15日の「お告げの祈り」のことば 三位一体

三位一体の主日の6月15日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を行いました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です(原文イタリア語)。 「お告げの […]

三位一体の主日の6月15日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を行いました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は緊迫するイラク情勢に対して次のように呼びかけました。また、9月21日にアルバニアの首都ティラナを訪れることも発表しました。
「ここ数日、イラクで起きていることを深い懸念のうちに見守っています。わたしは、イラクの国民、とりわけ激化する内戦の犠牲者、被害者、そして故郷を去ることを余儀なくされた人々や多くのキリスト者のために祈るよう皆さんにお願いします。イラク全土に安全と平和、そして和解と正義がもたらされ、宗教に関係なく、すべてのイラク国民が共存の模範を示しながら共に祖国を築いていくことができますように。イラクの人々のために共にマリアに祈りましょう」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 わたしたちは今日、三位一体の祭日を祝います。この祭日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちであり、全宇宙とあらゆる被造物の源であると同時に目的でもあります。それは神そのものです。三位一体には、教会の模範も示されています。教会では、イエスが愛してくださったように互いに愛し合うことが求められます。愛は、父と子と聖霊である神への信仰を表わす具体的なしるしです。イエスが「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)と言われたように、愛はキリスト者の特質です。憎しみ合うキリスト者という考えは矛盾しています。それは矛盾です。悪魔はつねにわたしたちを憎しみ合わせようします。なぜなら、悪魔は憎しみの種をいつもまいているからです。悪魔は愛を知りません。神こそが愛です。

 わたしたちは皆、「神は愛」であり、神は人間の行いに対して冷淡でも無関心でもないという知らせをつねにあかしし、告げ知らせるよう求められています。神は近くにおられます。神はいつもわたしたちのすぐそばにいて、喜び、悲しみ、希望、苦悩をわたしたちと分かち合うために一緒に歩んでくださいます。神は、ご自分が人となられたほどに、わたしたちを深く愛しておられます。神が世に来られたのは、世を裁くためではなく、イエスによって世が救われるためです(ヨハネ3・16参照)。これがイエスにおいて現れた神の愛です。この愛を理解するのはあまりにも難しいことです。しかし、イエスが近くにおられるときに、わたしたちはその愛を感じます。神はいつもゆるしてくださいます。神はいつも待ってくださり、わたしたちを深く愛しておられます。わたしたちが感じているイエスの愛は神の愛なのです。

 復活したイエスのたまものである聖霊は、神のいのちをわたしたちに伝え、三位一体の力をわたしたちに引き寄せます。それは、愛、交わり、助け合い、そして分かち合いの力です。愛する喜びのうちに他者を愛する人は、三位一体の写しです。互いに愛し合い、助け合っている家族は三位一体の写しです。人々が互いの幸せを求め、霊的、物的財を分かち合っている小教区は三位一体の写しなのです。

 真の愛は無限ですが、他者と出会い、その人の自由を尊重するために自らを制限することができます。わたしたちは毎週、日曜日にミサに行き、共に感謝の祭儀をささげます。聖体は、三位一体の神がひそかに住まわれ、ご自分を示す「燃える柴」のようです。それゆえ、教会は「キリストの聖体」の祭日を三位一体の祭日に続くものとしたのです。この木曜日、ローマの伝統に従い、聖ヨハネ・ラテラノ大聖堂でミサと聖体行列が行われます。ローマ市民と巡礼者の皆さん、「父と子と聖霊の三位一体のうちに集められた」(聖チリロ)民となりたいという願いを一緒に唱えましょう。わたしは、この木曜日の19時に行われるミサと聖体礼拝に皆さんが来られるよう望んでいます。

 三位一体の完全な被造物であるおとめマリアの助けによって、わたしたちの生活全体が、ささやかなしぐさや重大な決断を通して、愛である神への賛歌となりますように。

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