教皇フランシスコ、2014年8月6日の一般謁見演説:新しい契約と新しい民

8月6日朝、教皇フランシスコは、パウロ六世ホールで一般謁見を再開しました。この謁見の中で、教皇は教会についての連続講話の第3回として、「新しい契約と新しい民」について説明し、マタイによる福音書の第5章と第25章を読むよう促しました。以下はその全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 わたしたちは、これまでのカテケージスにおいて、教会は神が忍耐と愛のうちに準備してくださった民であり、わたしたちはその一員になるよう招かれていることについて考えてきました。わたしは今日、この民の特徴である新しさに焦点を当てたいと思います。この民は、主イエスがご自分のいのちを捧げることによって結んだ新しい契約によって誕生した真に新しい民です。その新しさは、これまでの道を打ち消すものでも、否定するものでもなく、むしろそれを前に推し進め、完成させるものです。

1. 旧約と新約をつなぐ非常に重要な人物がいます。それは、洗礼者ヨハネです。共観福音書によれば彼は「先駆者」です。彼は、人々を回心させ、神の慰めを身近なものとして受け入れられるようにすることによって、主の到来の準備をした人です。ヨハネによる福音書によれば、彼は「あかし人」です。なぜなら、彼は、イエスがわたしたちの罪をゆるし、ご自分の民を自らの花嫁、新しい人類の最初の実りとするために天から来られることを、わたしたちに示してくれるからです。「先駆者」、「あかし人」として洗礼者ヨハネは、聖書全体の中で中心的な役割を果たしています。なぜなら、彼は旧約における契約とその成就の間をつなぐ人であると同時に、預言とイエス・キリストにおけるその実現の間をつなぐ人でもあるからです。ヨハネは自分のあかしを通してわたしたちにイエスを示し、イエスに従うよう招いています。そして、そのためには、謙虚さ、悔い改め、回心が必要であると断言しています。彼は謙虚さをもって悔い改め、回心するよう人々に呼びかけているのです。

2. モーセがシナイ山で受けた律法に基づいて神との契約に関することがらを規定したように、イエスもガリラヤ湖沿岸の山から、弟子たちと群衆に真福八端で始まる新しい教えを伝えました。モーセはシナイ山で律法を示し、新しいモーセであるイエスはガリラヤ湖沿岸の山で律法を示しました。真福八端は、幸福を求めるという人間に本来備わっている願いに対する答えとして神が指し示した道であり、旧約の律法の完成です。十戒については、カテケージスで学んできたのでよくお分かりかと思います。しかし、真福八端はあまり唱えられません。真福八端を思い起こし、心に刻むよう努めましょう。さあ始めましょう。わたしが一行づつ唱えるので、その後に続けてください。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」。
「あわれみ深い人々は、幸いである、その人たちはあわれみをうける」。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。
「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。

 よくできました。それでは、これもやってみましょう。皆さんに宿題を出します。お手持ちの福音書を出してください。家にある福音書のポケット版をポケットやバックに入れていつも持ち歩くようにこの前、お話したのを覚えていますか。どうか福音書を持ち歩いてください。真福八端はマタイによる福音書の第5章に記されています。今日と明日、ご自宅でこの箇所を読んでください。イエスがお与えになった律法を忘れないようにしなければなりません。お願いします。
 これらのことばには、イエスがもたらした新しさのすべてがあります。キリストの新しさのすべてが、これらのことばに込められています。真福八端はまさにイエスの肖像画、イエスの生き方、真の幸いへの道です。イエスからいただいたこの恵みによって、わたしたちもその幸いを生きることができるのです。

3. 新しい律法に加えて、イエスはわたしたちを裁く際の「手順」も示しておられます。わたしたちはこの世の終わりに裁かれます。わたしたちはそこで何を尋ねられるのでしょう。どんな質問でしょうか。イエスがわたしたちを裁く際の手順とはどのようなものでしょうか。それは、マタイによる福音書の第25章に記されています。今日の宿題は、真福八端が記されたマタイ第5章を読むことと、この手順、すなわち裁きの日にわたしたちが聞かれる質問が示されている第25章を読むことです。わたしたちには、めだった称号も名声も特権もないかもしれません。それでも、もし、わたしたちが貧しい人、飢えている人、困窮している人、社会の片隅に追いやられた人、苦しんでいる人のうちに主を見いだすなら、主はわたしたちを認めてくださいます。これは、キリスト者の生活を評価するための根本的な基準の一つです。イエスはこの基準によって日々、自分自身を評価するようわたしたちを招いています。わたしは真福八端を読んで、自分のキリスト者としての生活はどのようにあるべきかを考え、マタイによる福音書第25章によって自分の良心を糾明しています。わたしは毎日、これらのことを繰り返しています。皆さんにとっても良いことだと思います。それらは簡潔ですが、具体的です。

 皆さん、新しい契約とは、神の慈しみと憐れみに包まれながら、キリストのうちに自分自身を見いだすことにほかなりません。それにより、わたしたちの心は喜びで満たされ、わたしたちの人生は神の愛の美しく確かなあかしとなります。そして、わたしたちはそのあかしを、日々、出会うすべての兄弟姉妹に示すのです。マタイによる福音書の第5章と第25章を読むという宿題をどうか忘れないでください。

PAGE TOP