教皇フランシスコの2014年降誕祭ミサ説教

12月24日夜、教皇フランシスコは、主の降誕の夜半のミサをサンピエトロ大聖堂で行いました。このミサには約8000人が参列し、中継が行われたサンピエトロ広場の大型スクリーンの前には約3000人の信者が集まりました。教皇の要 […]

12月24日夜、教皇フランシスコは、主の降誕の夜半のミサをサンピエトロ大聖堂で行いました。このミサには約8000人が参列し、中継が行われたサンピエトロ広場の大型スクリーンの前には約3000人の信者が集まりました。教皇の要望により、モーツァルトのミサ曲も演奏されました。以下はそのミサ説教の全訳です。
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 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9・1)。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」(ルカ2・9)。今日、この降誕祭夜半ミサの典礼は、救い主の誕生をこのようにわたしたちに示しています。光が深い闇を貫き、あたりを照らします。主がご自分の民の中におられることにより、敗北による悲しみと奴隷状態による苦痛が消え去り、喜びと幸せが訪れます。

 わたしたちも、この祝福に満ちた夜に神の家に来ました。自分の歩みを照らす信仰の炎に導かれ、「大いなる光」を見つける希望によって力づけられながら、地上を覆う闇を通って来たのです。わたしたちも自分の心を開くことによって、高みから生まれた太陽の子が地上を照らす奇跡を目の当たりにすることができます。

 この世を覆う闇の源は、時代の波の陰の中に見失われています。人類の最初の罪が行われた闇の時を思い起こしましょう。それは、カインが嫉妬に目がくらみ、その手で弟アベルを殺した瞬間です(創世記4・8)。その結果、暴力、戦争、憎しみ、抑圧がその後、何世紀にもわたって行われてきました。それでも神は、ご自分の姿にかたどって造られた人間に希望を置き、待っておられます。神はあまりにも長い間、待っておられるので、あきらめてしまうのではないかと思われるほどです。しかし、神があきらめることはありません。ご自身を否定することはないからです(二テモテ2・13参照)。したがって、神は人々や諸民族の腐敗を前にしても、忍耐強く待ち続けておられます。

 闇を照らすこの光は、神は御父であり、その忍耐強い誠実さは、闇や腐敗よりも強いことを、歴史を通してわたしたちに示しています。これが降誕祭の夜半のミサのメッセージです。神は怒りを爆発させることも短気を起こすこともありません。神は、放蕩息子のたとえ話の父親のようにいつもそこにおられ、いなくなった息子が帰ってくるのを遠く離れたところから見つけようと待っておられます。毎日、忍耐強く待っておられます。神は忍耐強いかたです。

 イザヤの預言は、大いなる光が輝き、闇を照らしたと告げています。この光はベツレヘムに生まれました。そして、マリアの優しい腕と、ヨセフの愛と、羊飼いたちの驚きに包まれました。天使は、こう言って、救い主の誕生を羊飼いたちに告げました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12)。その「しるし」とは、その夜、神がこの上なく身を低くされたことであり、また、神が愛をもってわたしたちの弱さ、苦しみ、不安、欲望、限界を引き受けてくださったことに他なりません。すべての人が待ち望み、心の底から求めているのは、まさに神の優しさです。神は愛に満ちたまなざしでわたしたちをご覧になり、わたしたちの貧しさを受け入れます。神はわたしたちの弱さを愛しておられるのです。

 この聖なる夜、わたしたちは、飼い葉桶におられる生まれたばかりの幼子イエスを見ながら深く考えるよう招かれています。わたしたちは、神の優しさをどのように受け入れているだろうか。神に引き寄せられ、抱かれがままにまかせているだろうか。それとも神が近づくのを阻んでいるのだろうか。「でも、わたしは主を求めています」と答える人もいるでしょう。しかし、もっとも大切なことは、主を求めることではなく、主が自分を見つけて、優しく気遣ってくださるがままにまかせることです。幼子イエスを前にして、わたしたちは次のように問います。「わたしは神が愛してくださるがままにまかせているだろうか。」

 また、わたしたちは、自分の周りにいる人々の苦難や問題を優しく受け入れる勇気をもっているでしょうか。効率的ではあっても、福音の温かみに欠けた非人間的な解決をむしろ好んでいないでしょうか。今、世界は優しさを必要としています。神の忍耐強さ、神の親しさ、そして神の優しさです。

 キリスト者の行いは、わたしたちの弱さに対する神のわざと異なるものであってはなりません。人生は優しさと柔和さを伴ったものでなくてはなりません。神がわたしたちの弱さを愛しておられること、そして神はわたしたちと出会うためにご自分を小さくされたことに気づくとき、わたしたちは、神に心を開き、こう願わずにはいられません。「主よ、わたしがあなたのようになれるようお助けください。人生でもっとも困難な状況にあるときに、優しさの恵みをお与えください。あらゆる欠乏した状況に寄り添える恵みをお与えください。そして、あらゆる争いの中で柔和になれる恵みをお与えください。」

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日、この聖なる夜に、ご降誕の場面を思い起こしましょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」(イザヤ9・1)ました。この光を見たのは、神の贈り物を受けることに心を開いている素朴な人々でした。しかし、横柄で高慢な人、自分の私利私欲のために法を定めた人、また他者に心を閉ざした人は、その光を見ませんでした。飼い葉桶に目を向け、聖母マリアに「わたしたちにイエスを見せてください」と祈り求めましょう。

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