教皇フランシスコ、2015年4月8日の一般謁見演説:家庭—9.子どもについて②

4月8日朝、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の12回目として、再び子どもについて語りました。以下はその全訳です。

家庭—9.子どもについて②

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 家庭に関するこの連続講話の中で、今日は、もっとも美しい贈り物であり、創造主が人間にくださった祝福である子どもに関する講話を締めくくりたいと思います。子どもがいかに素晴らしい贈り物であるかについては、もうお話ししました。今日は残念ながら、多くの子どもたちが耐え忍んでいる「受難」について語りたいと思います。

 大勢の子どもたちが、産まれた時から拒絶され、見捨てられ、幼少期も未来も奪われています。そうした子どもたちを産んだのは間違いだったと言って、自分を正当化しようとする人々もいます。それは恥ずべきことです。どうか、自分の過ちを子どもたちのせいにしないでください。子どもたちは、決して「過ち」ではありません。彼らが飢えていることも、貧しいことも、弱いことも、放置されていることも、無視されていることも、無力であることも、すべて子どもたちの過ちではありません。路上に捨てられた子ともたちが大勢います。学校がどういうところなのか知らない子どもたちも沢山います。むしろ、だからこそ彼らをよりいっそう惜しみなく、深く愛するべきです。大人の過ちのために子どもを罰するとしたら、人権や子どもの権利に関して厳かに宣言することなど、どうしてできるでしょうか。

 政治家、教育関係者だけでなく、すべての大人に伝えたいと思います。わたしたち大人には、子どもたちに対する責任、さらにはこの状況を変えるために出来るかぎりのことをする責任があります。子どもたちの「受難」についてお話します。社会の片隅に追いやられ、見捨てられた子どもたち、学校に通うことも、診察を受けることもなく、物乞いをしながら路上で何とか生きている子どもたち。こうした子どもたちは皆、神への叫びです。わたしたち大人が作ったシステムを非難する叫びです。不幸なことに、これらの子どもたちは、彼らを不正な売買や商取引のために搾取したり、戦争や暴力のために訓練したりする犯罪者たちのえじきになります。一方、富裕国と呼ばれる国々でも、多くの子どもたちが、家庭の危機や教育の格差、さらには非人間的な生活環境のために、悲惨な状況に置かれ、深く傷ついています。どの場合も、彼らの幼少期は、心身共にずたずたにされています。しかし、天におられる父は、こうした子どもたちの誰をもお忘れになりません。彼らの涙は決して、無駄ではありません。わたしたちの責任も決して無くなりません。人々の、わたしたち一人ひとりの、そして国家の社会的責任が無くなることはありません。

 あるとき、イエスは、両親に連れられて祝福を受けに来た子どもたちを追い払おうとした弟子たちを叱りました。これは感動的な福音の一節です。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた」(マタイ19・13-15)。親たちのこの信仰とイエスの応答は、何と素晴らしいことでしょう。わたしはこの箇所を、すべての子どもたちのための規範としたいと思います。重度の障がいを抱えた子どもを、神の恵みのもとに、どんな犠牲もいとわずに育てている素晴らしい親がいるのも事実です。しかし、こうした親たちを放っておいてはなりません。わたしたちは、彼らがその子の世話だけに追われる日々を送ることがないように、懸命に尽くしている彼らに寄り添い、喜びと屈託のない笑顔を分かち合うひと時を設けるべきです。

 子どもに関しては、次のようなもっともらしい言い訳は通用しません。「そうは言っても、わたしたちは慈善団体ではありません。」「自由な時間には、誰も自由に好きなことをするのです。」「残念だけど、わたしたちには何もできません」子どもたちについては、そんな言い訳は通用しないのです。

 子どもたちは、不安定な雇用や低賃金労働、長時間労働、劣悪な移動手段の影響を受けることが珍しくありません。さらには、早熟な結婚と無責任な離婚の犠牲になることもあります。子どもたちが第一の犠牲者です。子どもたちは、個人の権利を誇張する文化の影響を受けて、さらに早熟になります。「避ける」こともできずに暴力を受けたり、退廃的なことに慣れるよう大人たちに強いられたりしているのです。

 教会は、これまでのように今日も、母としての思いやりをもって、子どもたちとその家族のために尽くしています。そして、現代社会に生きる親子に、神の恵みと母としての思いやりを示します。時には決然と叱責したり、強く非難することもあります。子どもの問題は、笑いごとでは済まされません。

 次のような原則がしっかりと確立された社会はどのようなものか、考えてみましょう。「わたしたちは、確かに不完全で、多くの過ちを犯します。しかし、この世に生まれた子どもたちが、自分は過ちでも、価値のない者でも、生活難や大人の身勝手のために見捨てられた者でもないと確信するためだったら、大人はどんなに高価な犠牲も、どんなに大きな犠牲もいといません。」このような社会は、どんなに美しい社会になることでしょう。そこでは、多くの人が、そして数え切れないほど多くの罪がゆるされるでしょう。

 主は、幼い天使が伝えることばによって、わたしたちの生涯を評価します。それらの天使は、いつも御父のみ顔を仰いでいます(マタイ18・10)。幼い守護の天使は、わたしたちについて神にどのように報告するのでしょうか。いつもこのことを、自分に問いかけましょう。

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