教皇フランシスコ、2015年4月26日「アレルヤの祈り」でのことば  よい羊飼い

4月26日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」をささげました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です。 祈りの後、教皇はネパールの大地震の犠牲とな […]

4月26日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「アレルヤの祈り」をささげました。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です。

祈りの後、教皇はネパールの大地震の犠牲となった人々のために祈り、次のように述べました。
「わたしは、ネパールとその近隣諸国で大地震にみまわれた人々に寄り添うことをお約束します。犠牲者、負傷者、そしてこの災害のために苦しんでいる人々のために祈ります。兄弟愛のもとに行われる連帯によって、支援が差し向けられますように。マリアが彼らのかたわらに寄り添ってくださるよう祈りましょう。」

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 「よい羊飼いの主日」と呼ばれる復活節第4主日である今日、わたしたちは、イエスがどのようにご自分のことを説明されたのかを、彼の受難と死と復活に照らして、新たな驚きをもって再び見いだすよう促されています。「よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10・11)。このことばは、キリストが御父のみ旨に従い、十字架の上で無償でいけにえになったときに完全に実現します。キリストが「よい羊飼い」であることの意味が、そのとき完全に明らかになります。キリストはいのちを与えてくださいます。キリストはわたしたちすべてのために、ご自分のいのちをいけにえとして捧げました。皆さんのために、わたしのために、すべての人のためにです。だからこそ、キリストはよい羊飼いなのです。

 キリストは真の羊飼いです。羊の群れに対する愛のもっとも崇高な模範です。キリストは自らのいのちをすすんで捨てます。だれもキリストからいのちを奪い取ることはできません(18節参照)。キリストは羊のためにいのちを差し出します(17節参照)。偽の羊飼いとはっきり対比させながら、イエスは、人々を導く唯一の真の羊飼いとしてご自分を示します。悪い羊飼いは、自分のことを考え、羊を利用します。よい羊飼いは羊のことを考え、自分自身を差し出します。キリストは、貪欲とはかけ離れたかたであり、自分の群れの生活に加わる心細やかな導き手です。彼は自分の羊を導き、養い、守ること以外、何にも興味も野心も抱きません。もっとも崇高な対価として御自分のいのちを犠牲にしても、それらすべてを行います。

 よい羊飼いであるイエスの姿に、わたしたちは神の摂理を思い巡らし、わたしたち一人ひとりに対する神の父としての心配りを見いだします。神はわたしたちを独りにはしません。わたしたちは、真のよい羊飼いとしてイエスを見つめ、今日の典礼の第二朗読にあるように、感動と驚きのうちに叫びます。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(一ヨハネ3・1)。それは真に驚きに満ちた神秘的な愛です。御父は、わたしたちのためにいのちを捧げる羊飼いとして、イエスをわたしたちにお与えになったからです。御父は、ご自分がわたしたちに与えることのできる最高のもの、もっとも貴重なものをわたしたちに与えてくださいました。それはもっとも純粋で崇高な愛です。必要に迫られたものでも、計算によって調整されたものでも、利己的な願望によって引き寄せられたものでもありません。この神の愛の前で、わたしたちは計り知れない喜びを感じます。そして、自らの心を開いて、自分たちはどれほど偉大なものを無償で受けたのかを知ります。

 しかし、じっくりと考えて感謝するだけでは十分ではありません。よい羊飼いに従う必要もあります。とりわけ司祭、司教、教皇のように、教会の中で導き手となるよう託されている人々は、いつくしみのうちにご自分を無にしてわたしたちに仕えてくださるイエスにならって、管理者ではなくしもべのメンタリティーを持たなければなりません。今日の朝、わたしが喜びのうちに叙階したローマ教区の新しい司祭の皆さんも、こうした司牧生活の道、よい羊飼いの道へと招かれているのです。

 この二人がそうです。二人とも皆さんの祈りに感謝しています。

 至聖なるマリアが、喜びをもって福音を告げ知らせ、心から秘跡を行い、忍耐と優しさをもって司牧の導き手となる恵みを、わたしと司教と全世界の司祭に与えてくださいますように。

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