第49回「世界広報の日」教皇メッセージ(2015.5.10)

第49回「世界広報の日(2015年5月10日)」教皇メッセージ 「家庭について―愛のたまものと出会う特別な場」  家庭は、教会が深く考察すべき主題であると同時に、先日の世界代表司教会議(シノドス)臨時総会と、この10月に […]

第49回「世界広報の日(2015年5月10日)」教皇メッセージ
「家庭について―愛のたまものと出会う特別な場」

 家庭は、教会が深く考察すべき主題であると同時に、先日の世界代表司教会議(シノドス)臨時総会と、この10月に予定されているシノドス通常総会のテーマでもあります。したがって、今年の世界広報の日のテーマは、家庭に関するものがふさわしいと考えました。家庭はまさに、最初にコミュニケーションのしかたを学ぶところです。この点に注目することにより、わたしたちは新たな視点から家庭を見つめ、コミュニケーションをより真正で人間味あふれるものにすることができます。

 わたしたちは、マリアがエリサベトを訪問したことを記した福音箇所(ルカ1・39―56)から着想を得ることができます。「マリアのあいさつをエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかにいった。『あなたは女の中で祝福されたかたです。胎内のお子さまも祝福されています』」(同41―42)。

 この箇所はまず、コミュニケーションがいかに身ぶりと結びついた対話であるかを表わしています。マリアのあいさつに最初にこたえたのは、エリサベトの胎内で喜び、おどった子どもです。人と出会う喜びは、他のあらゆるコミュニケーションのいわば原型であり象徴です。その喜びは生まれる前でも味わうことができます。わたしたちを育む子宮は、コミュニケーションの最初の「学びや」であり、耳を傾け、からだで触れ合う場です。わたしたちは、母親の鼓動という心地よい音が響く守られた空間の中で、外界に順応し始めます。非常に強く結ばれながらも異なる人間である母と子の出会いは、希望に満ちた出会いであり、わたしたちの最初のコミュニケーション体験です。わたしたちは皆、母親から生まれたのですから、この体験を分かち合っているのです。

 この世に生まれた後も、わたしたちはある意味、家庭という「胎内」にいるといえます。家庭は、互いにかかわり合うさまざまな人々によって形作られる胎であり、「違いのある一人ひとりがともに住むことを学ぶ場です」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』66)。家族はきずなで結ばれているので、性別や年齢が違っても互いを受け入れ合います。こうしたかかわりの幅や年齢差が広がるほど、生活環境はより豊かになります。ことばはこのきずなに基づいており、ことばによってきずなはさらに強まります。わたしたちは、自分でことばを作り出すのではなく、ことばを受け取って使えるようになります。父祖たちのことば(二マカバイ記7・25、27参照)である「母国語」の話し方を学ぶのは、家庭の中にほかなりません。わたしたちは家庭の中で、自分より前に生きていた人々がいること、彼らのおかげで自分が存在できたこと、今度は自分がいのちを生み出し、何かよいこと、素晴らしいことをするのだということに気づくのです。受けたからこそ、与えることができます。このような好循環は、家庭内外の人々とコミュニケーションする力の中核となっています。さらに全般的にいうなら、それはあらゆるコミュニケーションの模範です。

 わたしたちに「先立つ」このきずなを体験することを通して、家庭は、祈りというもっとも根本的なコミュニケーションを伝える場になります。生まれたばかりの我が子を寝かしつけるとき、親はしばしば神に自分の子をゆだね、見守ってくださるよう願います。子どもたちが少し成長すると、親は、祖父母、親戚、病気の人、苦しんでいる人、神の助けを必要とするすべての人々に思いを寄せながら、いくつかの簡単な祈りが唱えられるよう手助けします。わたしたちのほとんどが、信仰におけるコミュニケーションを家庭の中で学びました。キリスト教におけるコミュニケーションは、神が与えてくださった愛と、自分が他の人々に差し出す愛に包まれています。

 家庭の中で、わたしたちは互いを受け入れ支え合うこと、表情や沈黙の意味を読み取ることを学びます。そして、互いに選び合ったわけではなくとも、それぞれにとって欠かせない人である家族とともに笑い、泣くことを学びます。こうして、わたしたちは、コミュニケーションとは親しさを認めて深めることであると理解するようになるのです。相手とより親しくなり、受け入れ合うことによって、互いの距離が縮まるとき、わたしたちは感謝と喜びを感じます。マリアのあいさつを受けて胎内の子がおどったことは、エリサベトが受けた恵みです。そして、あの素晴らしい「マリアの賛歌」へと続きます。この賛歌の中でマリアは、自分と神の民のための神のいつくしみ深い計画をたたえます。信仰のうちに答える「はい」は、わたしたちだけでなく、世界中に影響を与えます。「訪れる」ことは扉を開くことであり、自分の小さな世界に閉じこもることではありません。それは、出向くこと、他の人々のもとへ行くことです。同様に、家庭も外の世界に開かれたときに生き生きと息づきます。そのような家庭は、いのちと交わりのメッセージを伝え、より深く傷ついた家庭にいやしと希望を与え、教会そのもの、すなわちさまざまな家庭から成る一つの家庭を成長させるのです。

 家庭とは、自分の限界、他者の限界、さらには他者と平穏に暮らす際に生じる大小さまざまな課題を日々身をもって感じる場にほかなりません。完璧な家庭などありません。わたしたちは、不完全さ、弱さ、さらには争いも恐れることなく、むしろそれらに前向きに対処するすべを学ぶべきです。そうすれば、限界や罪を抱えながらも愛し合う場である家庭は、ゆるしの学びやとなります。ゆるしは、コミュニケーションの原動力です。悔い改めていることが示され、それが受け入れられるとき、途絶えていたコミュニケーションを再開し、再び発展させることが可能になります。家庭の中で、他者に耳を傾けること、敬意をもって話すこと、人の意見を否定せずに自分の意見を主張することを学んだ子どもは、社会の中で対話と和解を推進する力となるでしょう。

 コミュニケーションとさまざまな制約に関しては、障害のある子どもを抱えた家庭から多くを学ぶことができます。身体的、感覚的、知能的な制約があると、人は自分の中に閉じこもりがちです。しかし、こうした制約も、親兄弟や友人の愛があれば、心を開き、すべての人と分かち合い、コミュニケーションするきっかけになります。それはまた、学校や小教区、諸団体を、すべての人を温かく迎える場とするための助けにもなりえるのです。

 ののしったり、悪口をいったり、中傷したり、不和の種をまいたり、陰口によって対人関係を損ねたりすることが珍しくない世界において、家庭はコミュニケーションを祝福として理解することを教えてくれます。石の壁や、偏見や怒りといった克服しがたい壁によって家庭が分裂し、憎しみや暴力にとらわれた状況、「もうたくさんだ」というのが妥当であると思われる状況において、その悪循環を断ち切り、どんなときも幸せになれることを示し、子どもたちに兄弟愛を教えることができるのは、ののしりではなく祝福、拒絶ではなく訪問、争いではなく受け入れることにほかなりません。

 今日、特に若者にとって生活の欠かせない一部となっている現代のメディアは、家庭内、家庭間のコミュニケーションの妨げにも助けにもなりえます。メディアが妨げとなるのは、それが他者に耳を傾けることから逃げたり、直接的なかかわりを避けたり、あらゆる沈黙と休息の時間を埋める手段となるときです。「沈黙はコミュニケーションに欠かせない要素です。沈黙がなければ、豊かで内容を伴うことばは存在しえません」(教皇ベネディクト十六世、2012年世界広報の日メッセージ)ということがないがしろにされてしまうのです。メディアがコミュニケーションに役立つのは、それによって、人々が話を共有したり、遠くにいる人と連絡を保ったり、感謝や謝罪の意を表わしたり、新たに人と出会う扉を開いたりするときです。この出会いの重要性とその「新たな可能性」に対する認識を日々、高めることにより、わたしたちはテクノロジーに支配されるのではなく、それを賢く利用することができるでしょう。この点においても、親は第一の教育者です。しかし親だけに任せるわけにはいきません。キリスト教共同体は、メディアが発展した環境において人間の尊厳を尊重し、共通善のために尽くす生き方を子どもたちに教え、親たちを助けなければなりません。

 わたしたちが今日、直面している大きな課題は、単に、情報をどのように生み出して消費するかということではなく、互いに話し合う方法を学び直すことです。このことにおいて、現代の重要かつ高性能なコミュニケーション・メディアはわたしたちの助けとなります。情報は重要ですが、それだけでは十分ではありません。あまりにも多くの場合、物事が単純化され、異なる立場や見解をもった人々が対立し合い、人々が物事の全体をとらえるのではなく、どちらか一方の味方をするよう迫られているからです。

 結論として、家庭は論議の対象でも、主義主張をやり合う場でもありません。それはむしろ、寄り添いながら伝え合うことを学ぶ場、コミュニケーションが行われる場、すなわち「伝え合う共同体」です。家庭は、助けを差し伸べ、いのちを賛美し、豊かな実りをもたらす共同体です。このことを理解すれば、家庭は問題点でも、危機に瀕したものでもなく、豊かな源であり続けることをあらためて認識することができるでしょう。メディアには、家庭を生き生きとした実体としてとらえるのではなく、受け入れるか拒否するか、守るか攻撃するか選択しなければならない一種の抽象的なひな型のように取り上げる傾向があります。また、受けて与える愛を伝え合うことの意味を学ぶ場としてではなく、イデオロギーが対立する場として家庭を報じる傾向もあります。伝えることは、わたしたちの人生が一つの実体として結ばれていること、多くの声が存在すること、それぞれの声が独自のものであることの表れなのです。

 家庭は社会の問題点としてではなく、その源としてとらえられるべきです。良好な家庭は、男女や親子の結びつきの美しさと豊かさをあかししながら、コミュニケーションを活発に行います。わたしたちは過去を守るために戦っているのではありません。未来を築くために、自分が日々、生活している世界で、忍耐と信頼をもって働いているのです。

バチカンにて
2015年1月23日
聖フランシスコ・サレジオの記念日の前晩
教皇フランシスコ

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