教皇フランシスコ、2015年5月13日の一般謁見演説:家庭—14.三つのことば

ファティマの聖母の記念日である5月13日朝、教皇フランシスコは聖母像の前で沈黙のうちに祈りをささげた後、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の17回目として、家庭生活に欠かせない三つのことばについて語りました。以下はその全訳です。

家庭—14.三つのことば

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日のカテケージスは、家庭生活に関する一連の講話の入口としての役割を果たします。それは、日々、家庭の中で生活するとはどのようなものであるかを説明しています。この入口に三つのことばが記されている様子を想像してみてください。それらは、わたしがここサンピエトロ広場で以前に何度も指摘した、「いいですか」「ありがとう」「ごめんなさい」ということばです。これらは、家庭生活を円満で平和なものにする道を切り開くことばにほかなりません。それは単純なことばですが、実際に言うのはそんなに簡単ではありません。このことばには大きな力があります。多くの問題や試練に直面しても家庭生活を守る力です。もし、それらが失われたら、亀裂が入り始め、すべてが崩壊することすらあります。

 これらのことばは、通常、「礼儀正しい」ことを表わすことばとして類別されます。確かに、礼儀正しい人は許可を求め、感謝し、間違えたら謝ります。礼儀正しいことは、確かに非常に重要です。偉大な司教、聖フランシスコ・サレジオは、「礼儀正しければ、すでに聖性への道を半分、歩んでいる」と言っています。しかし気をつけてください。これまでの歴史を見れば分かるように、礼儀正しい態度は、他者に対して冷淡で無関心な心を覆い隠す、一種の形式主義に陥ることもあります。「よいマナーの背後には、多くの悪習が隠れている」とよく言われる通りです。宗教も、形式的な世俗主義に陥る恐れがあります。実際、イエスを誘惑した悪魔は、自分が礼儀正しいことを誇示し、聖書を引用する神学者のように見えることすらあります。その外見は正しいのですが、その真意は神の愛の真理から逸脱しています。しかし、真の意味での礼儀正しさは、善意の愛と他者への尊重のもとに、豊かな人間関係を育むものです。家庭は、そのように心細やかな愛を生きているのです。

 最初のことば、「いいですか」について考えてみましょう。人に何かを丁寧に頼むとき、たとえそれが与えられて当然であるとしても、結婚生活と家庭生活の基盤となる共同生活を尊重しなければなりません。他人の生活に立ち入る際には、すでに自分の人生にとって欠かせない存在になっている人に対してであっても、押しつけがましくならないよう配慮する必要があります。そうすれば、信頼と尊重を新たにすることができます。親しいからといって、何をしてもかまわないということはありません。実際、愛情が深くて強ければなおさら、相手の自由を尊重し、相手が心の扉を開くのを待たなければなりません。ここで、「ヨハネの黙示録」の中のイエスのことばを思い出しましょう。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(3・20)。主でさえも、中に入るのに許可を求めます。このことを忘れないようにしましょう。家庭の中で何かをする前に、「こうしてもいいですか」「こうして欲しいですか」と尋ねてください。そのように尋ねることは、真に礼儀正しい行いであると同時に、愛にあふれた行いでもあります。それにより、家庭はさらに豊かになるのです。

 第二のことばは「ありがとう」です。現代社会には、乱暴な行いやことばを乱用し、それらをまるで解放のしるしであるかのように考える傾向があるようです。乱暴なことばが公然と語られることも珍しくありません。優しさと感謝の心が、弱さのしるしとして考えられ、不信を招くことすらあります。この傾向は家庭の中にも見られます。わたしたちは、感謝することを必ず人々に教えなければなりません。人間の尊厳と社会正義は家庭を通して伝わります。こうした生き方が家庭生活において否定されるなら、それは社会生活でも否定されるでしょう。また、キリスト者にとって感謝することは、信仰の中心そのものです。感謝できないキリスト者は、神の「ことば」を忘れています。なんと悲惨なことでしょう。重い皮膚病を患った10人の人をイエスがいやしても、その中のたった一人しか感謝するために戻って来なかったことに対するイエスの問いかけを忘れてはなりません(ルカ17・18参照)。非常に思慮深く慎ましいある老人が「感謝は、気高い心を持った土にだけ育つ草木です」と言っていました。彼はいのちと信心について素晴らしい知恵を持っていました。このような魂の気高さと、心の中にある神の恵みにより、わたしたちは感謝の心をもって「ありがとう」と言うよう駆り立てられます。それは、気高い魂が咲かせる花です。本当に美しいことです。

 第三のことばは「ごめんなさい」です。これは言いづらいことばですが、とても必要なことばです。このことばが失われたら、亀裂が入り始めます。その亀裂は、たとえそう望まなくても、大きな溝になる可能性があります。イエスが教えてくださった「主の祈り」――生活における本質的な問いがまとめられている祈り――の中には、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」(マタイ6・12参照)という祈りがあることを忘れてはなりません。自らの過ちを認めることによって、また失われたもの――敬意、誠意、愛――を取り戻したいと願うことによって、人はゆるされるに値する者となります。このようにして、病がいやされます。謝ることができなければ、ゆるすこともできません。謝ることができない家庭は、息苦しく、よどんだ雰囲気になってしまいます。「ごめんなさい」というこの大切なことばが失われると、家庭内に多くの苦しみや傷が生じ、涙が流れます。結婚生活にいざこざはつきものです。皿が飛ぶような大げんかもあるでしょう。しかし一つ、アドバイスさせてください。互いに仲直りせずに一日を終えることのないようにしましょう。よく聞いてください。夫婦げんかをしたことがありますか。子どもの皆さん、皆さんは両親とけんかをしたことがありますか。大げんかになったことがありますか。それはよいことではありませんが、それが本当に問題なのではありません。問題なのは、その気持ちのまま次の日を迎えることです。けんかをしたとしても、家族と仲直りしないで一日を終えないようにしましょう。どうやって仲直りしたらよいのでしょう。ひざまずくのでしょうか。違います。ほんの小さなしぐさや、ささやかなことによって、皆さんの家庭に平和が戻ります。ほんの少し、優しくするのです。ことばは必要ありません。しかし、仲直りせずに、日が沈むことがないようにしましょう。分かりましたか。それは簡単ではないでしょうが、そうしなければなりません。そうすれば皆さんの生活はさらに素晴らしいものになるでしょう。

 このように、家庭生活における三つのキーワードは非常に単純なことばです。あまりにも単純なので、思わず微笑んでしまうかもしれません。しかし、これらのことばを忘れたら、もう笑うどころではありません。わたしたちは、礼儀正しくすることを軽視しすぎているのかもしれません。これらのことばを、本来あるべき姿で家庭と社会の中に取り戻せるよう、主がわたしたちを助けてくださいますように。

 この三つのことばを一緒に繰り返し唱えましょう。「いいですか」「ありがとう」「ごめんなさい」。これらのことばが家族愛に浸透するからこそ、家庭はどんな時代にも存在し続けるのです。わたしのアドバイスを繰り返し唱えましょう。「仲直りせずに、一日を終えないようにしましょう」。

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