教皇フランシスコ、2015年6月10日の一般謁見演説:家庭—18.家庭と病

6月10日朝、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の21回目として、家庭と病について語りました。以下はその全訳です。

家庭—18.家庭と病

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 家庭に関するカテケーシスを続ける中で、今日は、病という、どの家庭にも共通することがらについて触れたいと思います。病は、わたしたちが自分の弱さを体験することです。幼少期から、からだのあちこちが痛みだす老齢期まで、わたしたちはほとんどの場合、家庭の中で病に直面します。家族のきずなが結ばれているところでは、愛する家族の病は「なお一層」つらく、苦しく感じられます。愛ゆえに「なお一層」つらく感じるのです。多くの場合、父親や母親にとって、子どもの苦しみは自分の苦しみ以上に耐え難いものです。家庭はつねにもっとも身近な「病院」であるとも言えます。今日でも、限られた人しか病院に行けなかったり、病院が非常に遠かったりする地域が世界中にあります。両親や兄弟姉妹、祖父母が、治療したり、看病したりしているのです。

 福音書には、イエスが病人に会い、いやしたことが何度も記されています。イエスは、ご自分は病と闘い、霊的・身体的なあらゆる悪から人間を救うために来たと、自らのことを示しておられます。マルコによる福音書には、感動的な場面が記されています。「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた」(マルコ1・32)。今日、都会には、いやされたいと望む病者を連れて行けるような戸口があるでしょうか。イエスは、病者をいやすことに背を向けることは決してありませんでした。病者の前を通り過ぎたり、彼らから目をそらすこともありませんでした。両親、もしくは知り合いが病者を連れて来て、その人に触れて、いやすよう求めれば、イエスは時を移さずいやしました。いやしは、律法よりも、安息日に休むことよりも優先されました(マルコ3・1-6参照)。律法学者たちは、イエスが安息日に病者をいやし、善を行ったので、イエスを非難しました。しかし、イエスの愛は病をいやし、善を行うことのうちにあります。そのことがつねに優先されるのです。

 この同じわざを行うために、イエスは弟子たちを遣わし、彼らにいやす力、すなわち病者に寄り添い、彼らの深い傷をいやす力をお与えになります(マタイ10・1参照)。生まれつき目が見えない人の話の中のイエスのことばを忘れてはなりません(ヨハネ9・1-5参照)。弟子たちは、――その目の見えない人の目の前で――この人が生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいだろうか、本人だろうか、それとも両親だろうかと議論します。主は、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもなく、神のわざがこの人に現れるためだと、断言します。そしてその人をいやします。これは神の栄光です。これが教会の務めです。病者を助けること。おしゃべりなどせずにいつも病者を助け、なぐさめ、安心させ、彼らに寄り添うこと。これが務めです。

 教会は苦しんでいる最愛の人のためにつねに祈るよう促します。病者のために必ず、祈らなければなりません。個人としても共同体としても祈らなければなりません。ここで、カナンの女の話を思い起こしましょう(マタイ15・21-28参照)。彼女は異教徒であり、イスラエルの民ではありませんが、自分の娘をいやしてほしいとイエスに懇願します。彼女の信仰を試すために、イエスは最初、「それはできない。わたしはイスラエルの小羊のことを第一に考えなければならないからだ」と厳しく答えます。彼女はあきらめません。自分の子どものために助けを求める母親は、あきらめたりしません。母親が自分の子どものために戦うことは、皆さんもよくご存じの通りです。そして彼女は「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と答えます。それはまるで、「せめて小犬として扱ってください」と言っているかのようです。そしてイエスは彼女に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と言います。

 病に直面すると、家庭内でも人間の弱さゆえに問題が発生します。しかし、通常、病によって家族のきずなは強まります。病に直面した時の連帯について、幼い頃から子どもに教えることが、いかに重要であるかわたしは考えます。病に対する感受性を損なうような教育は、心を衰えさせます。それにより、若者は人の苦しみに「無感覚」になり、苦しみに向きあい、試練に立ち向かうことができなくなってしまいます。疲れ切った顔で職場に来る人をよく見かけます。彼らに「どうしたの」と尋ねると、「家でかわるがわる病気の子ども、もしくは祖父母のそばにいたので、2時間しか寝ていないのです」と答えます。それでもその日の仕事を続けます。これは英雄的な行いです。家族による勇敢な行いです。このような隠された英雄的な行いは、自宅に病者がいるときに、優しさと勇気のもとに行われるのです。

 最愛の人が弱ったり、苦しんだりすることは、子どもや孫にとっての「いのちの学びや」になりえます。子どもや孫に、祈りと愛情を込めて病者に優しく寄り添うことを家庭内で教えるのは重要なことです。キリスト教共同体は、試練や病にみまわれた家庭が孤立してはならないことを十分、認識しています。わたしたちは、教会の素晴らしい兄弟愛のわざを主に感謝しなければなりません。教会は、家庭が痛みや苦しみに満ちた困難な時を切り抜ける際の助けとなっているからです。キリスト者の家族同士の親しい交わりは、小教区の真の宝であり、英知の宝です。その交わりは、どんな講義よりも巧みに、苦しみに直面している家庭が神の国について理解するのを助けます。それは神のいつくしみです。

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