教皇フランシスコ、2015年6月17日の一般謁見演説:家庭—19.死

6月17日朝、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の22回目として、死について語りました。以下はその全訳です。

家庭—19.死

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 家庭に関する講話を続けていますが、今日は、先ほど読まれた、ルカによる福音書の中の話(7・11-15参照)から直接、インスピレーションを得ようと思います。それは、苦しんでいる人に対するキリストのあわれみが表現されている、非常に感動的な場面――やもめである母親が一人息子を失った場面――です。そこには、死をしのぐイエスの力も示されています。

 死は、あらゆる家庭が必ず体験することです。それは人生の一部ですが、家族愛について考えるとき、死はとても自然なこととは思えません。親にとって、子どもに先立たれることは、胸の張り裂けるような体験です。それは家庭を意味づける関係そのものの根本的な性質に矛盾します。子どもに先立たれるとき、親の時間は止まってしまうかのようです。深い溝が口を開き、過去も未来ものみ込んでしまいます。幼児や若者の死は、平手打ちのように、約束も、愛のたまものも、生まれたいのちに喜んで尽くしてきた愛の犠牲もかき消してしまいます。聖マルタの家(教皇の居住地)で行われるミサには、時折、親たちが自分の子どもの写真を携えてやって来ます。彼らは「もうこの子はいないのです」と言います。彼らは悲しみに沈んだ顔をしています。死は悲しいことですが、子どもの死は底知れない悲しみをもたらします。家族全体が麻痺したように、ことばを失います。また、片親もしくは両親を失い、取り残された子どもたちも同様です。彼らは「お父さんはどこ」、「お母さんはどこ」と聞きます。「天国にいるんだよ」と言うと、「どうして会えないの」と聞きます。こうした問いが、残された子どもの心を悲しみで覆います。子どもの心の中に開いた喪失感という穴は、その子には起こったことを「認識できる」だけの人生経験がないために、より一層、悲しいものになります。「お父さんはいつ帰って来るの。」「お母さんはいつ帰って来るの。」子どもが苦しんでいるときに、どんなことばがかけられるでしょうか。家庭の中の死とはこのようなものです。

 こうした場合、死は家庭生活に開いたブラックホールのようです。死を説明することなどできません。そして時には、わたしたちは神に不平を言うことすらあります。どれほど多くの人が、神に対して怒り、神を冒とくしたことでしょう。「どうしてわたしの子どもを奪ったのですか。神などいない。神は存在しない。どうして神はこんなことをなさったのだろう。」こうしたことばがしばしば聞かれます。しかし、こうした怒りは、根本的には、深い悲しみに沈んだ心から生じています。子どもを失うこと、親を失うことには、はかり知れない悲しみが伴います。こうしたことが、さまざまな家庭の中で繰り返されています。わたしは先ほど、これらの場合、死は穴のようなものだと言いました。しかし肉体の死には、憎しみ、ねたみ、高慢、傲慢といったさらに悪いものが「つきまといます」。つまり、こうした世の罪が死に作用し、その死をさらに痛ましく、不当なものにするのです。人間の歴史の中で、家庭のきずなは、これらの死の力によって無力な犠牲者となるよう宿命づけられているかのようです。世界各地で、人々の憎しみと無関心によって、死の恐怖をつのらせる出来事が何度も起きています。こうした「当然のように思われる」不条理な事態について考えましょう。こうした事態に慣れてしまわないように、主がわたしたちを助けてくださいますように。

 イエスにおいて与えられたあわれみという恵みのもとに、多くの家庭が神の民の中で、死がすべての終わりではないことを自らの行いによってあかししています。これは、信仰の真のわざです。死を悼むたびに――深い悲しみに沈んでいるときでさえ――、家族は信仰と愛を守る力を見いだします。わたしたちは、信仰と愛によって、愛する人と結ばれるのです。死はもはや、すべてを失うことではなくなりました。死の闇に立ち向かうには、とてつもなく大きな愛が必要です。晩の祈りには、「神よ、わたしの闇を照らしてください」という祈りがささげられます。主は、御父から託された人を誰一人、見捨てません。使徒パウロのことばに示されているように(一コリント15・55参照)、わたしたちは、主の復活の光のもとに、死から「とげ」を抜くことができます。わたしたちは、死がいのちを汚し、わたしたちの愛をむなしくし、わたしたちを深い闇の深淵へと押しやるのを阻むことができるのです。

 こうした信仰のうちにわたしたちは、主は死に完全に打ち勝つことを認識し、互いを慰め合うことができます。わたしたちの愛する人は、無の闇の中に失われたのではなく、神の優しく力強い手の中にいるのだと、希望をもって確信することができます。愛は死よりも強いのです。ですから、愛を育てる道を歩みましょう。愛を強めましょう。そうすれば、あらゆる涙がぬぐわれる日まで、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21・4)日まで、愛がわたしたちを守ってくれます。もし、わたしたちが信仰によって支えられるがままにゆだねるなら、悲しい体験によって家庭のきずなが強まることも、他の家庭の悲しみに心を開くことも、さらには家庭間に新たな兄弟愛が希望のうちに生まれ再生することもあるでしょう。信仰は、希望のうちに生まれ再生することによって育まれます。今日、読まれた福音書の最後の箇所をよく考えたいと思います(ルカ7・11-15)。福音書には、イエスはやもめの一人息子を生き返らせた後、「息子をその母親にお返しになった」と記されています。これがわたしたちの希望です。主は、死別した最愛の人をすべて、わたしたちのもとに返してくださり、わたしたちは彼らと共にいることができるようになります。この希望が失われることはありません。イエスのこのわざを、決して忘れないようにしましょう。「イエスは息子をその母親にお返しになった」のですから、主はわたしたちの家庭のすべての愛する人にも、同じようにしてくださいます。

 こうした信仰は、死に対する虚無的な考え方や世間の誤った慰めからわたしたちを守ってくれます。「それは、キリスト教の真理がさまざまな種類の神話と混同され」(教皇ベネディクト十六世、お告げの祈りでのことば、2008年11月2日)、迷信的な信仰に屈しないようにするためです。今日、司牧者とすべてのキリスト者は、家庭内の悲しい体験における信仰の意味をより具体的に示さなければなりません。涙を流す権利を否定すべきではありません。死を悼む際には、涙を流すのが当然です。イエスも、愛する家族を失った悲しみにより「涙を流し」、「興奮しました」(ヨハネ11・33-37参照)。多くの家庭が、死を迎えるもっともつらい時期に、死者の復活という確かな約束を携え、十字架につけられ復活した主の確かな道を見いだしてきました。彼らの純粋で力強いあかしから、わたしたちは学ぶことができます。神の愛のわざは死のわざより強いのです。その愛のために、まさにその愛のために、わたしたちは信仰をもって懸命に「共に働く者」とならなければなりません。そして、イエスのわざを忘れないようにしましょう。「イエスは息子をその母親にお返しになった」のですから、わたしたちが再会したとき、イエスはすべての最愛の人とわたしたち自身にも同じようにしてくださいます。そのとき、死はわたしたちのうちで完全に打ちのめされるのです。死はイエスの十字架によって打ち破られました。イエスはすべての人を家庭に返してくださるのです。

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