教皇フランシスコ、2015年6月24日の一般謁見演説:家庭—20.傷ついた家庭①

6月24日朝、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の23回目として、傷について語りました。以下はその全訳です。

家庭—20.傷ついた家庭①

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 わたしたちはここ数週間、貧困や病、死といった人間のもろさから生じる家庭の苦しみに関する講話を進めてきました。しかし、今日は家庭生活の中で受ける傷について考えたいと思います。家庭の中で傷つけ合うのは、最悪なことです。

 ご存じのように、どの家庭でも、家族の行いによって愛情のきずなが傷つけられるような事態が起こります。ことばと行い(そして怠り)によって、愛を表わすのではなく、愛をないがしろにし、愛を抑えつけることさえあるのです。こうした傷は、まだ治る可能性がありますが、放置されればさらに悪化し、傲慢、敵意、軽蔑へと変わっていきます。そして、ある時点で深刻な傷となり、夫婦は別れてしまいます。そうした夫婦は、あらゆるところに理解や助言、慰めを求めますが、多くの場合、そうした「助言」は家庭の幸せを考えたものではありません。

 夫婦愛が薄れると、さまざまな関係の中に怒りが広がります。そして、多くの場合、こうした離別の影響は子どもたちに「降りかかります」。

 そうです。子どもたちです。わたしはこの点について少し、考えたいと思います。わたしたちは一見、繊細な感受性を持ち、正確な心理分析をしているかのようですが、それは単に、子どもたちの心の傷に対する自分の感性をあえて麻痺させているだけではないでしょうか。物やお菓子で償おうとすればするほど、子どもたちが受けた、あまりにも苦しく深い心の傷を感じることができなくなってしまいます。わたしたちは、行動障害、メンタルヘルス、子どもの福祉、両親と子どもが抱える不安等について頻繁に話し合います。しかし、はたして心の傷とは何なのか分かっているでしょうか。家族が互いをさげすみ、傷つけ合い、夫婦間の信頼関係が失われている家庭の中で、子どもの心を押しつぶしている重荷の重さはどれほどのものでしょうか。わたしたちの選択――例えば誤った選択――は、子どもたちの心にどれほど重くのしかかっているでしょうか。大人たちが我を失い、自分のことだけ考えるとき、また両親が互いに傷つけ合うとき、子どもたちの心は深く傷つきます。子どもたちは絶望し、その傷跡は生涯、消えることはありません。

 家族は皆、結ばれています。したがって、一人の心が何らかの形で傷つくと、その影響はすべての家族に及びます。家庭を築き、「一つのからだ」になるよう約束した男女が、自らの自由と自己満足のことばかり考えているとしたら、そのゆがみは子どもたちの心と生活を深く傷つけます。多くの場合、子どもたちは独りで隠れて泣いています。このことを十分に認識する必要があります。夫婦は一つのからだです。その夫婦の小さなこどもたちは、彼らのからだのからだです。小さな者をつまずかせないように、イエスが大人たちにきびしく警告している箇所――さきほど読まれた福音(マタイ18・6参照)――について考えれば、家庭の礎となる夫婦のきずなを守る責任の重大さに関するイエスのことばも、より深く理解できるでしょう(マタイ19・6-9)。男女が一つのからだとなるとき、彼らの子どもたちの生きたからだは、両親の傷と無関心の影響を受けるのです。

 一方、離別が余儀なくされる場合があるのも確かです。別れることが道義的に必要であるときもあります。それは、とりわけ虐待、暴力、侮辱、搾取、侮蔑、放棄、無関心によって引き起こされるさらに深刻な被害から、より弱い立場にある配偶者や小さな子どもを守る必要がある場合です。

 幸いなことに、とてももとに戻れそうもない状態にあっても、信仰と子どもたちへの愛に支えられ、自分が信じるきずなを忠実にあかししている夫婦もいます。離別しているすべての夫婦が、こうした招きを感じるわけではありません。わたしたちの周りには、いわゆる変則的な状態――この表現は嫌いですが――にある、さまざまな家庭があります。彼らをどのように、支えたらいいでしょうか。どのように寄り添うべきでしょうか。子どもたちが片方の親の人質とならないように、彼らに寄り添うにはどうしたらよいでしょうか。

 神のまなざしをもって現実を見つめるために、深い信仰を主に願い求めましょう。そして神のいつくしみ深い心をもって人々に寄り添うために、深い愛を願い求めましょう。

PAGE TOP