教皇フランシスコ、2015年8月26日の一般謁見演説:家庭—24.祈り

8月26日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の27回目として、祈りについて語りました。以下はその全訳です。
謁見の終わりに、教皇は「世界環境保護祈願の日」を9月1日に制定するにあたり、それに言及しました。

家庭—24.祈り

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 これまでは、家庭における祝日・休日の過ごし方と労働について考えてきましたが、今日は「祈りの時」について考えます。実際、キリスト者は、時間についてよく不平を言います。「祈りたいのはやまやまだが、いつも時間がない」といった不平をよく耳にします。心から悔いているのは確かです。人間の心は、たとえ気がつかなくても、いつも祈りたいと願っているからです。もしその願いに気づいたら、落ち着いてなどいられません。しかし、その望みに気づくために、わたしたちは自分の心の中にある、神への「熱い」愛、愛情のこもった愛を深めなければなりません。

 非常に単純な質問をさせてください。心から神を信じることはよいことです。困難な時に神の助けを願うのもよいことです。神に感謝しなければと思うこともよいことです。それは確かなことです。しかし、わたしたちは主を愛しているでしょうか。ほんの少しでも愛しているでしょうか。神がお考えになることに感動したり、魅了されたり、心が和らいだりするでしょうか。

 他のおきての基本となる、大いなるおきてについて考えましょう。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・5。マタイ22・37参照)。熱烈な愛を表わすことばが、神に向けられています。そこには特に祈りの心が宿っています。祈りの心がそこにあれば、祈りの心はどんな時にも消えずに宿ります。何にもましてわたしたちを生き生きとさせる優しいかたとして、神を感じることができますか。何があっても、たとえ死んでも別れることのない優しいかたとして、神を感じていますか。それとも、すべてを創造した偉大なかたとして、またあらゆる行いを裁くかたとしてのみ、神を感じていますか。もちろん、それらはすべて間違っていません。しかし、わたしたちが神を愛するより先に、まず神がわたしたちを愛してくださるからこそ、この聖書のことばは完全な意味を持ちます。そしてわたしたちは、少し戸惑いながらも、幸せを感じるのです。神はわたしたちのことを考えてくださり、しかも愛してくださるからです。何と感動的なことでしょう。父としての愛をもって神がわたしたちを愛してくださることに、心を打たれずにいられるでしょうか。何と素晴らしいことでしょう。神は、至高のかたとしてご自分を示し、おきてを与え、結果を待つこともできたでしょう。しかし、神はそうではなく、それ以上に偉大なことをされましたし、今もしておられます。神はわたしたちの人生に寄り添い、わたしたちを守り、わたしたちを愛しています。

 もし神への愛に火がともされなければ、祈りの心が時を温めることはありません。イエスが言うように、わたしたちは「異邦人のように」ことば数を増やすこともできれば、「偽善者のように」しきたりに従うこともできます。(マタイ6・5、7参照)。神への愛をよりどころにする心にとって、祈りとは、ことばにしない思いであり、聖なるかたへの願いであり、また教会への接吻でもあります。母親が自分の子どもたちに、イエスとマリアに投げキスをすることを教えるのは素晴らしいことです。そこには、深い優しさがあります。そのとき、子どもの心は、祈りの場に変えられます。それは聖霊のたまものです。このたまものが各自に与えられるよう願い求めるのを忘れないようにしましょう。神の霊は、わたしたちが心の中で「アッバ」「父よ」と唱えるための特別な方法をご存じだからです。聖霊は、イエスのように「父よ」と唱える方法を教えてくださいます。その方法は、わたしたちの力では決して学べません(ガラテヤ4・6参照)。この聖霊のたまものを求め、感謝するすべを学ぶのは家庭の中にほかなりません。もし、「お父さん」「お母さん」と呼ぶのを覚えるときのように自然に、「父よ」と言うことができたら、人はそのすべをいつまでも忘れません。そうすれば、家庭全体の時間が神の愛の胎に包まれ、自然に祈りの時間を求めるようになるでしょう。

 ご存じのように、家庭における時間は複雑でせわしなく、多くのことに捕らわれています。いつも時間が足りず、十分、満たされることは決してありません。やらなければならないことがたくさんあります。家庭において両親は、偉大な数学者でも解けないような問題を解く方法を知っています。彼らは24時間でその2倍の時間分の務めをこなします。そのためにノーベル賞が受けられるほどです。24時間に48時間分の仕事をするのです。どうやってやるのか分かりませんが、なんとかしています。家庭にはあまりにも多くの仕事があるのです。

 祈りの心を持つことは、神に時間を返すことです。それは、せわしない日々のとらわれから遠ざかり、必要なことがらのうちに平穏を再び見いだし、予期しない贈り物を受ける喜びを感じることです。このことを教えてくれる案内人が2人います。それは、先ほど読まれた福音朗読に登場したマルタとマリアの姉妹です。彼女たちは、調和に満ちた家庭のリズム、祝い事の素晴らしさ、労働の平穏さ、そして祈りの心を神から学びました(ルカ10・38-48参照)。彼女たちにとって、愛するイエスの訪問は祝い事です。しかし、ある日、マルタは、もてなすために働くことは重要だが、それがすべてではなく、マリアのように主のことばを聞くことが本当に重要で、「一番大切な」時であることを学びました。イエスに耳を傾けることから、また福音を聞くことから、祈りが湧き出ます。毎日、福音の一節を読むのを忘れないでください。みことばに親しめば、祈りが生まれます。家庭の中で、福音に親しんでいますか。福音書が家庭にありますか。それを一緒に開いて読むことがありますか。ロザリオを唱えながらその箇所について考えていますか。家庭で福音を読んで黙想することは、皆の心を養う、よいパンのようです。朝夕に食卓に座り、純真に共に祈りを唱えます。そのとき、イエスは、マルタやマリア、ラザロと共におられたように、わたしたちの中に来られるのです。あることが、わたしの心をとらえています。それは十字の切り方を習わなかった子どもたちが町中にいることです。ですから、保護者の皆さんは、子どもたちに祈り方と十字の切り方を教えてください。それは両親にとっても、素晴らしい務めです。

 忙しいときも、苦難にあるときも、神の愛によって家族が守られるように、わたしたちは家庭の祈りのうちに互いにゆだね合っているのです。


謁見の終わりに、教皇は「世界環境保護祈願の日」を9月1日に制定するにあたり、次のように述べました。

「来週の火曜日、9月1日に『世界環境保護祈願の日』を記念します。わたしたちは、正教会の兄弟姉妹とすべての善意の人とともに祈りをささげ、人類が直面している環境の危機を乗り越えるために尽力したいと思います。この日が、首尾一貫したライフスタイルを生きるためのきっかけとなるように、世界中のさまざまな教会組織で祈りと黙想の集いが計画されています。」

PAGE TOP