教皇フランシスコ、2015年9月9日の一般謁見演説:家庭—26.共同体

9月9日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の29回目として、共同体について語りました。以下はその全訳です。

家庭—26.共同体

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日は、家庭とキリスト教共同体の結びつきに焦点を当てたいと思います。この結びつきが本性的なのは、教会は一つの霊に満たされた家庭であり、家庭は一つの小さな教会であるからです(『教会憲章』9参照)。

 キリスト教共同体は、全人類の兄弟愛の源であるイエスを信じる人々の家です。教会は人間の、そして両親や子どもたちの歴史を通して、その民の間を旅しています。主はその歴史を尊重しておられます。この世の権力者が起こした大きな出来事は歴史書に記され、そのまま残ります。一方、人間の思いの歴史は神の心に直接、記され、永遠に残ります。いのちと信仰はそこに記されます。満ちあふれるいのちに向かうこの歴史にわたしたちが踏み出すために、家庭は欠かせない、かけがえのない起点です。その歴史は、天上で永遠に神を見つめることによって頂点に達しますが、それは家庭から始まります。だからこそ、家庭はとても大切なのです。

 神の子も、人間の歴史をそのように学び、全うしました(ヘブライ2・18、5・8参照)。イエスと、このきずなのしるしについて黙想することは素晴らしいことです。イエスは家庭に生まれ、そこで「この世について学びました」。そこは、1軒の店と4軒の家しかないような小さな村です。そこで過ごした30年の間、イエスは人となられ、御父との交わりとご自分の使命のうちに、人間の姿を受け入れました。そして、ナザレを出て、公生活を始めるとき、イエスはご自分の周りに「集い」とも言える共同体を作りました。それはいわば召命によって人々を招くことでした。これが「教会」ということばの意味です。

 福音書の中でイエスの周りに集う人々は、もてなしの心にあふれる一つの家庭を形作ります。それは、閉鎖的で閉ざされたものではありません。そこにはペトロやヨハネがいますが、そのほかにも飢えた人、渇いた人、異邦人、迫害されている人、罪びと、徴税人、ファリサイ派の人など多くの人々がいます。そして、イエスは絶えず皆を受け入れ、語りかけます。生涯、神に出会わなくてもよいと思っている人にも語りかけます。これは、教会への重要な教訓です。そこに集まった人々の世話をするために、神に招かれた人々から成るこの家庭を守るために使徒たちは選ばれたのです。

 現代において、イエスの周りに集い続けるためには、家庭とキリスト教共同体の間のきずなを再び新たにすることが不可欠です。家庭と小教区は、愛の交わりが実現する二つの場と言えるでしょう。その愛の交わりの究極の源は神です。福音に真に従う教会は、いつも扉を開いている、もてなしの家のようになるに違いありません。閉ざされた教会や小教区、教会組織のことを、教会と呼んではいけません。博物館とでも呼ぶべきです。

 今日、このきずなは絶対に必要なものです。「イデオロギーや経済、政治における『権力の中心』に対して、わたしたちは自らの希望を、この人間のぬくもりにあふれる福音の愛の中心に置きます。その希望は連帯と参加に根差しています」(教皇庁家庭評議会「ベルゴリオ枢機卿(現教皇フランシスコ)の家庭生活に関する教え1999-2014」 LEV 2014, 189)。さらに、ゆるし合うことにも根差しています。

 今日、家庭とキリスト教共同体の間の結びつきを強めることは、急を要する、不可避なことがらです。このきずなを新たにすることに対する理解と勇気を得るには、豊かな信仰が必要です。家庭はときに、しりごみして、そんなことはできないと言います。「神父さま、わたしたちは貧しい家庭で、着るものもろくにありません。」「そんなのは無理です。」「我が家はもう、たくさんの問題を抱えているのです。」「そんな力はありません。」確かにそうでしょう。しかし、価値のない人、何もできない人、何の力も無い人などいません。神の恵みがなければ、わたしたちは何もできません。あらゆるものが、わたしたちに与えられます。しかも無償で与えられます。主は、奇跡を行わずに新しい家庭に来られることは決してありません。主がカナの婚宴でされたことを思い起こしましょう。そうです。もし、わたしたちが自らを神の手にゆだねるなら、主はその家庭の中におられ、わたしたちのために奇跡を起こしてくださいます。それは日常生活の中で行われる奇跡なのです。

 もちろん、キリスト教共同体もその役割を果たさなければなりません。たとえば、人々が互いに対話し、認め合い、尊重し合えるようになるために、過剰に指導的、管理的な態度をすることを克服しなければなりません。家庭が、自らの貴重なたまものを共同体に伝えるために率先して働き、その責任を感じることができますように。わたしたちは皆、キリスト者の信仰はすべての人と生活を共にしつつ、開かれた場で行われることを理解しなければなりません。家庭と小教区は、社会生活全体を一つの共同生活にするという奇跡のために働かなければならないのです。

 カナには、「よい勧めをくださる御母」であるイエスの母がおられました。マリアのことばを聞きましょう。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2・5)。家庭の皆さん、小教区の皆さん、聖母マリアの勧めに従い、イエスが言いつけたら、その通りにしましょう。そうすれば、あらゆる奇跡の源、日常生活における奇跡の源を見いだすことができるでしょう。

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