教皇フランシスコ、2015年10月14日の一般謁見演説:家庭—29.子どもたちへの約束

10月14日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の32回目として、子どもたちへの約束について語りました。以下はその全訳です。

家庭—29.子どもたちへの約束

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日は天気が不安定で、雨が降ると予報されているので、この謁見は2カ所で同時に行うことにしました。この広場とパウロ六世ホールです。パウロ六世ホールでは、病気をわずらっている700名の方々が巨大スクリーンを見つめています。皆さん、拍手で彼らに挨拶しましょう。

 今日のイエスのことばは力強いものです。「世は人をつまずかせるから不幸だ。」イエスは具体的に語ります。「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18・7)。わたしは講話を始める前に、最近、ローマとバチカンで起こっているスキャンダルについて、教会を代表して皆さんにおわびしたいと思います。皆さんがゆるしてくださるよう願います。

 今日は、非常に重要なテーマについて考えます。わたしたちが子どもたちと結ぶ約束です。それは、日常生活の中で交わす約束のことではありません。例えば、子どもたちを喜ばせたり、よい子にさせたりするために交わす約束や、学校で一生懸命勉強するよう励ますために、またわがままならないようになだめるために結ぶ約束などです(わたしも、ちょっとした計画として、皆さんに菓子をあげて同じような約束をするかもしれません)。そういう約束ではなく、もっとも重要な約束のことを話します。それは、人生に対する子どもたちの期待にとって、人々に対する彼らの信頼にとって、さらには神の名を祝福として受けとめる力にとって、もっとも重要な決め手となる約束です。わたしたちはそうした約束を子どもたちと交わすのです。

 わたしたち大人は、子どもは「人生の希望」だとよく言います。皆、「子どもたちは人生の希望だ」と言います。そして、「若者はわたしたちの未来だ」と言い、やや感傷的になります。確かにそうです。しかし、彼らの未来、子どもたちの未来、若者の未来について、わたしたちは本当に真剣に考えているでしょうか。わたしたちはもっと頻繁に次のように自問すべきです。わたしたちは、子どもとの約束について、どれほど真剣に考えているでしょうか。子どもたちをこの世界に導くのはわたしたちです。わたしたちは次のような約束をします。どんな約束でしょうか。

 受容とケア、親しさと配慮、信頼と希望は、どれも根本的な約束です。これらは愛という一語に要約できます。わたしたちは愛を約束します。愛は、受容、ケア、親しさ、配慮、信頼、希望として表れます。しかし真の約束は愛です。それが、この世に生まれて来る赤ん坊を受け入れる最高の方法です。わたしたちは皆、気づかないうちから、そのことを知っています。わたしが皆さんの間を回るとき、ご両親が赤ん坊をかかげて差し出すことがあります。わたしはその様子を見てうれしく思います。「この子は生後何カ月ですか」と尋ねると、彼らは「3、4週間です。祝福をお願いします」と答えます。これもまた、愛と呼ぶことができます。愛とは、人があらゆる子どもと結ぶ約束です。それは、自分の心の中で子どものことを考えた時から生じます。この世に生まれた子どもたちは、その約束が確かなものとなるのを、信頼のうちに、無防備で完全な形で待ち望んでいます。どの民族、どの文化、人生のどの段階においても、子どもたちを見つめるだけで十分です。もしその逆のことが起こるなら、子どもたちは、耐え難いつまずきによって傷ついてしまいます。そのつまずきは、あまりにも深刻で、子どもたちには理解できません。彼らは何が起こっているのか分かりません。神はこの約束についてまず警告しておられます。イエスのこのことばを覚えていますか。「子どもたちの天使は、いつも神のみ顔を仰いでいる。神が子どもたちを見失うことは決してない」(マタイ18・10参照)。子どもたちの信頼を裏切る人には災いがもたらされます。わたしたちは、自分が子どもたちと最初に交わした約束に、子どもたちが信頼をもって身をゆだねるかどうかによって裁かれるのです。

 ここで、敬意をもって率直に皆さんにもう一つ、申し上げたいと思います。子どもたちが生まれつき持っている神への信頼を、決してくじいてはなりません。特に、ある種の(ほぼ無意識の)ふそんさによって、自分が神にとって代わるようなことがあってはなりません。子どもたちの魂と神との間の、優しく神秘的な関係を、決して壊してはなりません。それは、神がお望みになり、神が守っておられる真の関係です。子どもたちは、生まれた時から神に愛されていると感じることができます。彼らにはその備えができています。自分たちが愛されていると感じるやいなや、子どもたちは自分たちを愛してくださる神がおられることも感じることができるのです。

 生まれたばかりの赤ん坊は、愛の霊的な特性を確認できるというたまものを、栄養とケアと共に受け始めます。名前をつけ、ことばを交わし、思いやりをもって見つめ、輝くような笑顔で接する中で、愛のわざは行われます。こうして彼らは、人々の間のきずなの美しさは、魂に向けられたものであり、自由を求め、他者との相違を認め、彼らを対話の相手として認識し敬うことを学びます。第二の奇跡、第二の約束はこれです。父親や母親であるわたしたちは、子どもである皆さん一人ひとりのために自らをささげます。これは愛です。その愛は神の愛の輝きに満たされています。そして、父親であり母親である皆さんがこの神の輝きを自分の子どもたちに差し向けるとき、皆さんは神の愛の道具となります。何と素晴らしいことでしょう。

 イエスのまなざしをもって子どもたちを見つめるときはじめて、わたしたちは、家庭を守ることによって人類を守るということが真に理解できます。子どもたちの視点は、神の子の視点です。教会そのものも、洗礼のうちに子どもたちと大切な約束を交わすことによって、親たちとキリスト教共同体を結びつけています。イエスの母である聖母マリアが、その母性と信仰の道を教会がたどれるよう助けてくださいますように。神の子はマリアを通してわたしたちのもとに来て、愛され、人間の子どもとしてお生れになったのです。聖ヨセフ――神の祝福と約束を受け入れ、守り、勇気をもって尊重した正しい人――の助けによって、すべての人が、神が地上にお送りになった一人ひとりの子どもの内におられるイエスを受け入れることができますように。

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