教皇フランシスコ、2015年11月11日の一般謁見演説:家庭—32.ともに生きること

11月11日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の35回目として、ともに生きることについて語りました。以下はその全訳です。

家庭—32.ともに生きること

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日は、幼児期に身につける家庭生活に特有な要素について考えます。それはともに生きること、つまり生きるのに必要なものを分かち合い、そうできることに喜びを感じることです。分かち合うこと、そして分かち合うすべを知ることは、何とすばらしい美徳でしょうか。その象徴、その「イコン」は、食卓に集う家族です。食事をともにすること――食料だけでなく、愛情、話、行事をともにすること――は、共通の体験です。誕生日や記念日などの祝い事があると、わたしたちは食卓に集います。文化によっては、死別の際にも、家族を失い、苦しんでいる人々に寄り添うために集います。

 共生性は、結びつきの健全性をはかるバロメーターにほかなりません。もし、家族の一員が脇道にそれたり、密かに傷を抱えたりすれば、食卓ですぐに察知できます。めったに一緒に食事をしない家族、話をするよりもテレビを見たりスマートフォンで遊んだりしている家族は、「とても家族とは言えない」家族です。子どもたちがテーブル上のコンピューターや携帯電話に釘付けになり、互いに話をしない家族は、家庭ではなく、寄宿舎のようなものです。

 皆さんもご存じのように、キリスト教には、共生性という特別なたまものがあります。主イエスは、食卓を囲んで喜びのうちに教え、ときには神の国を婚宴として描きました。イエスは、食事の時間、夕食の時を選んで、ご自分の霊的なあかしを弟子たちに託しました。そして、真理と永遠の愛を育み、救いをもたらす食べ物と飲み物として、ご自分のからだと血をお与えになったのです。

 したがって、家庭はミサで「本領を発揮する」とも言えます。なぜなら、家庭は自分たちのともに生きる体験をミサに持ちより、ミサを普遍的な共生性という恵みへと、またこの世に対する神の愛へと解き放つからです。ミサにあずかることによって、家庭は自らの内に閉じこもろうとする誘惑を退け、愛と忠誠のうちに強められ、キリストのみ心に従って兄弟愛を広めるのです。

 閉鎖的な状況や多くの障壁が存在する現代において、家庭によってもたらされ、ミサによって広められる共生性は、欠かせないものです。ともに生きることによって育まれるミサと家庭は、閉塞的な状況を打開し、受容と愛のかけ橋を築くことができます。そうです。さまざまな家庭から成る教会のミサは、共生性と受容という力強いパン種を共同体に取り戻すことができます。それは、対立を恐れず、すべての人を包括する学びやです。小さくされた人、親を失った子ども、弱い立場にある人、傷ついている人、失望している人、絶望している人、見捨てられている人の誰もが、聖体のもとに家族が共に生きることによって、強められ、生気を取り戻し、守られ、はぐくまれるのです。

 家庭の美徳を思い起こすことにより、わたしたちの認識は深まります。一人の母親が自分の子どもだけでなく、他の子どもたちも見守り、注意を傾け、面倒を見るとき、どんな奇跡が起こるか、わたしたちは理解してきましたし、今も理解しています。最近まで、広場にいるすべての子どもたちを見守るのに、母親が一人いれば十分でした。実際、ご存じのように、すべての人の子どもを守ることのできる親の子どもには力があります。なぜなら、彼らは子どもを分割できないたまものとして考え、喜びと誇りをもって子どもを守るからです。

 今日、多くの社会的要因により家庭の共生性が妨げられています。それが今、容易でないのは事実です。家庭の共生性を取り戻す方法を見つけなければなりません。わたしたちは食卓で話し、耳を傾けます。沈黙はいけません。沈黙というのは、修道士の沈黙ではなく、利己主義の沈黙です。各自が自分のことやテレビ、コンピューターのことばかり考え、話をしないのです。そのような沈黙はいけません。家庭の共生性を取り戻し、時代に適応させることが重要です。共生性は売り買いできるものになったように思えますが、そうではありません。食糧に関しては、パンも愛情もない人々に物資が行き渡るように公平に分かち合うことが、常に行われているとは言えません。富裕国では、人々は必要以上の食料を買うよう駆り立てられますが、わたしたちは今、その態度を見直す必要があります。この意味もない「駆け引き」は、わたしたちの注意を、からだと魂の真の飢えからそらします。共生性がなければ、利己主義が生まれ、人は自分のことばかり考えます。人々は広告を見て、スナックや甘い物をどんどん欲しがるようになりますが、その一方で、あまりにも多くの人々が食卓につくこともできずにいます。これは恥ずべき事態です。

 感謝の祭儀の神秘に目を向けましょう。主はすべての人のためにご自分のからだを裂き、ご自分の血を注ぎます。この交わりのいけにえに抵抗できる分裂などありません。悪と共謀した偽りの行いだけが、人をそれから引き離します。他のどんな隔たりも、この裂かれたパンと流された血の無防備な力、すなわち主の唯一のからだの秘跡に抵抗することはできません。キリスト者の家庭の生き生きとした力強い契約は、日々の苦労や喜びに先行し、それらを支え、もてなしのダイナミズムの中にそれらを受け入れます。そしてミサの恵みのうちに働きます。ミサは、受容し救う力をもって交わりを新たにすることができるのです。

 このように、キリスト者の家庭はその真の地平の大きさを表します。それはすべての民族の中で見捨てられた人、除外された人を含むすべての人の母である教会の地平です。この家庭の共生性が、来たるべきいつくしみの特別聖年に育まれ、成熟するよう祈りましょう。

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