教皇フランシスコ、2015年11月18日の一般謁見演説:家庭—33.歓待の扉

11月18日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、家庭に関する連続講話の36回目として、扉を開くことについて語りました。以下はその全訳です。


家庭—33.歓待の扉

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 わたしたちはこの講話で、聖年の入り口に達します。聖年はもう目前です。わたしたちは聖年の扉だけでなく、神のいつくしみの偉大な扉というもうひとつの扉をも前にしています。それは何と素晴らしい扉でしょう。この扉は、わたしたちの悔い改めを受け止め、主のゆるしという恵みを与えてくれます。この扉は大きく開け放たれています。その扉をくぐるためには、ほんの少しの勇気が必要です。わたしたちは皆、重荷を抱えています。わたしたちは皆、罪人です。これから訪れる時を生かして、神のいつくしみの扉をくぐりましょう。神は絶えずわたしたちをゆるし、待っていてくださいます。神はわたしたちを見守り、いつもそばにいてくださいます。勇気をもって、この扉をくぐりましょう。

 10月に開催された世界代表司教会議(シノドス)は、この開かれた扉の前に集うよう、すべての家庭と教会を駆り立てました。教会は、その扉を開け放ち、主とともに出かけるよう促されました。それは、苦境の中でときには不安を抱え、意気消沈している兄弟姉妹と出会うためです。とりわけキリスト者の家庭は、主のために扉を開け放つよう勇気づけられました。主は祝福と愛情を注ぐために扉から中に入ろうと待っておられます。神のいつくしみの扉はいつも開かれているのですから、わたしたちの教会、共同体、小教区、諸団体、教区の扉も、神のいつくしみを告げるために出かけられるように、開かれていなければなりません。聖年は、神のいつくしみの偉大な扉だけでなく、わたしたちの各教会の小さな扉も指し示しています。それらの扉は、主が、入ったり――ときには出たり――できるように開かれている必要があります。主は、わたしたちが作った組織や利己主義、他の多くのことのために縛りつけられているからです。

 主は決して扉を無理やり開けたりしません。主もまた、入ってもよいか許可を求めます。ヨハネの黙示録に記されている通りです。「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(3・20)。主がわたしたちの心の扉をたたいておられる様子を思い描きましょう。黙示録の最後の場面では、神の国は次のように予言されています。「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」(21・25)。世界には、扉に鍵をかけない地域もまだあります。しかし、非常に多くの地域では、扉の防犯を強化することが当たり前になっています。こうしたやり方を、わたしたちの生涯、家庭生活、地域や社会における生活、そして何よりも教会の生活にあてはめなければならないという考え方に屈してはなりません。それはとんでもない考えです。自らの内に閉じこもっている家庭のように無愛想な教会は、福音を抑え込み、世界を衰退させます。教会の扉を、厳重に閉ざしてはなりません。扉を完全に開いてください。

 「扉」――もしくは戸口、通路、境界――が象徴するものの管理は、非常に重要です。扉は守るものであり、当然、拒むものではありません。扉の開閉は強制されるものではなく、許可を求めるものです。なぜなら、歓待する姿勢は、人々を自由に受け入れるときに輝き、乱暴に侵入するときに色あせるからです。扉は、外にだれかが立っていないか見るために、何度も開かれます。もしかしたらその人は、ノックする勇気も力もないのかもしれません。いかに多くの人々が信仰を失い、キリスト者の心の扉をノックする勇気も持てずに、教会の扉の前に立っていることでしょう。彼らは勇気を持てずにそこにたたずみ、わたしたちは信用を失います。どうかそんなことが決して起きないようにしてください。扉はその家や教会について多くのことを物語っています。扉の番をするには、注意深い識別と深い信仰が必要です。わたしたちのマンション、民間施設、そして教会の門番をしている方々に感謝の意を表します。門番の方々の洞察力と丁重さは、玄関だけでなくその家全体に、優しく歓迎に満ちた印象を与えます。人間社会で出会いと歓待の場を見守っている人々から学べることは沢山あります。住居であれ、教会であれ、数多くの扉の番をしている皆さんに心から感謝します。皆さんは、その家や教会が人々を受け入れることをいつも笑顔で表現し、楽しく歓迎に満ちた印象をその場所に与えてくださるからです。

 わたしたちは実際、自分も神の扉の番人であり召使いであることを十分認識しています。それでは、この神の扉の名は何でしょうか。それはイエスです。イエスは、すべてのいのちの扉を照らしてくださいます。その中には誕生の扉も死の扉も含まれます。イエスご自身が断言しているとおりです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10・9)。イエスはわたしたちを出入りさせてくださる扉です。神の羊の囲いは、牢獄ではなく逃れ場だからです。神の家は逃れ場であって、牢獄ではありません。そしてその扉はイエスです。もしその扉が閉まっていたら、わたしたちは「主よ、扉を開いてください」と言います。扉であるイエスが、わたしたちを出入りさせてくださいます。この扉を避けようとする人々は泥棒です。興味深いことに、泥棒は扉を避けて、窓や屋根などの他の場所から入ろうとします。彼らは悪意を持っているので、羊をだまし、利用するために羊の囲いに忍びよるのです。わたしたちは扉から入り、イエスの声を聞かなければなりません。イエスの声を聞けば、わたしたちは安心し、救われます。そして恐れを抱かずに入り、危険に遭わずに出ることができます。この美しいたとえ話の中で、イエスは羊飼いに門を開くことを使命としている門番のことも話しておられます(ヨハネ10・2参照)。門番は、羊飼いの声を聞いて扉を開け、羊飼いが連れてきたすべての羊を中に入れます。その中には、森で迷子になり、羊飼いが連れ戻した羊も含まれています。羊たちは、門番によって選ばれたのでも、小教区や教区の管理者によって選ばれたのでもありません。羊たちは皆、善い羊飼いに選ばれ、招かれています。門番もまた、羊飼いの声に従います。したがって、わたしたちはこの門番のようにならなければなりません。教会は主の家の所有者ではなく、門番なのです。

 ナザレの聖家族は、出産を控えている人にとって、避難する場のない人にとって、危険から逃れる必要のある人にとって、扉の開閉が何を意味するのかよく知っておられます。キリスト者の家庭は、自分の家の戸口を、神のいつくしみと寛容の扉の偉大なしるしとします。したがって、地上のどんな所でも教会は、扉をノックしておられる神の門番として、また家族の一員ではないからといって目の前で扉を閉めることは決してない神の歓待の表れとして認識されなければなりません。こうした精神のもとに聖年を迎えましょう。聖年の扉があります。そして神の偉大ないつくしみの扉があります。わたしたち皆の心の中にも、神のゆるしを受け入れるための扉、そして扉をノックしているすべての人を今度はわたしたちが受け入れ、ゆるすための扉が存在しますように。

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