教皇フランシスコ、2016年1月3日「お告げの祈り」でのことば  みことばの受肉

2016年1月3日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」をささげました。ここで行われた福音朗読は、降誕節第二主日のものです(ヨハネ1・1-18)。日本では、 […]

2016年1月3日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」をささげました。ここで行われた福音朗読は、降誕節第二主日のものです(ヨハネ1・1-18)。日本では、この主日に「主の公現の祭日」が記念されるために、朗読箇所が異なっています。以下は祈りの前に教皇が述べたことばの全訳です。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
 降誕節第二主日である今日の典礼は、ヨハネによる福音書の冒頭の箇所をわたしたちに示しています。「ことば」――すなわち創造のことば――は、「肉となって、わたしたちの間に宿られました」(ヨハネ1・14)。つまり、神の国、天におられた「ことば」が地上に来られました。それは、わたしたちがそのことばを聞き、御父の愛を知り、実際に触れられるようにするためでした。ことばは、人となられた神の独り子であり、恵みと真理に満ちた(ヨハネ1・14参照)かた、すなわちイエスご自身です。

 福音記者ヨハネは、「神の子の受肉がもつ劇的な本性」を隠さず伝えると同時に、人類が神の愛というたまものを受け入れなかったことを強調しています。ことばは光です。しかし人類は暗闇を好みました。ことばは、ご自分が成したものの間に来られましたが、人々はことばを認めませんでした(9-10節参照)。彼らはみ子の前で扉を閉めました。それは、わたしたちの生活をも脅かす悪の秘義です。わたしたちは、その秘義が蔓延しないように警戒し、注意していなければなりません。創世記には、このことを理解する助けとなる素晴らしい一節があります。それは、罪は「戸口で待ち伏せしている」(創世記4・7参照)ということばです。その秘義を中に入れてしまったら、わたしたちに災いが起こり、わたしたちの心の扉は誰に対しても閉じられてしまいます。このように、イエスの子どもになるためには、自分の心の扉をみことばに向けて、すなわちイエスに向けて開け放たなければなりません。

 降誕祭には、ヨハネによる福音書の冒頭にある荘厳な箇所が読まれました。その箇所が今日、再び示されています。それは、光の神秘であるこの救いのことばを受け入れるよう求める母なる教会の招きです。そのことばを受け入れ、イエスを受け入れるなら、わたしたちは主の知恵と愛のうちに成長し、主のようにいつくしみ深くなるわざを身につけるでしょう。とりわけこのいつくしみの特別聖年にあたり、「福音が、これまで以上にわたしたちの生活にも受肉する」ようゆだねましょう。福音のもとに近づき、福音について考え、日常生活の中で福音を実践することが、イエスを知り、イエスを他者に伝える最上の方法です。イエスを伝え、イエスを差し出すことは洗礼を受けたすべての人の召命であり喜びです。しかし、そのためには、わたしたちのいのちの主であるイエスを知り、自分たちの中であかししなければなりません。わたしたちの心の扉にいつも潜んでいて、その中に入ろうとしている悪魔から、イエスはわたしたちを守ってくださいます。

 み子が自らをゆだねたことに新たな力を受けつつ、わたしたちもマリアに再び自分自身をゆだねましょう。イエスの母であり、わたしたちの母であるマリアの優しい姿を、わたしたちがご降誕の場面の中に、ここ数日間、思い巡らすことができますように。

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