教皇フランシスコ、ユスト高山右近の列福を承認

教皇フランシスコは、2016年1月21日、日本のカトリック教会がかねて念願としていたユスト高山右近の殉教を公式に宣言する教令に署名し、列福を正式に承認しました。 この決定は、キリシタン大名として名高いユスト高山右近の信仰 […]

教皇フランシスコは、2016年1月21日、日本のカトリック教会がかねて念願としていたユスト高山右近の殉教を公式に宣言する教令に署名し、列福を正式に承認しました。
この決定は、キリシタン大名として名高いユスト高山右近の信仰の意義を、教会内外に知らせる貴重な機会です。

列福式の開催場所・開催日等については、教皇庁国務省、列聖省と、日本カトリック司教協議会で協議の上決定されます。

カトリック中央協議会のウエブサイトで、「ユスト高山右近」を特集として取り上げ、様々な角度から、その霊性について紹介していきます。ぜひご覧ください。また逐次、列福式の準備状況を配信いたします。

右近の列福の意義

ユスト高山右近 (以下右近) が生きた16~17世紀初頭は、長く続いた戦乱がようやく収束して国が統一に向かう時代です。商業活動が活発化し、金鉱や銀鉱の発見などを背景に外国貿易が盛んになりました。経済的にも文化的にも活気溢れる雰囲気の中で、人びとは、知恵と才覚さえあれば、誰でも目に見える繁栄や権力、名誉が手に入るという夢をもてました。その気になれば、上を目指せる時代だったのです。

そのような時代に、右近はキリスト教の信仰に出会いました。右近は、まさに上を目指す戦国武将たちの世界に生まれ育ち、社会の中で認められる富や権力や名誉が、じつは、はかない、一時的なものに過ぎないことを見抜きました。右近は、実力派の大名と目される人物でしたが、絶えず上を求めるパワーゲームを離れ、人間を真に幸福にする信仰の道をあえて選び取ったのです。どのような人でも、無条件に愛される価値がある。その根拠は何か。右近は、人の価値は、才能や知識、能率・効率、業績によるのではなく、無条件に神から愛されている事実によることを、イエス・キリストが伝えた福音から学び取ったのです。右近の生涯は試練の連続であり、追放に追放を重ねる生活を余儀なくされました。地位も名誉も失い、流浪の生活が続き、ついに祖国を追われても、右近は神だけに愛される幸せを生き抜きます。神への信仰は、理論で理解できるものではありません。いのちを懸けた証しがあってこそ、信じるに足ると納得できます。殉教者のあかしがあってこそ、福音宣教は可能になるといっても過言ではありません。

現代は相対的価値観に支配され、信念を貫いて生きることが困難な時代です。そして、さまざまな生き方の選択肢を用意する現代、才能や能力の有無という価値観で負け組・勝ち組を振り分けようとする時代にあって、右近は、人間の救いはイエス・キリストの福音によると信じ、何が真の人間の価値であるか、何が人間を真に幸福にするかを見抜き、それに向かって主体的に自分の生き方を選び取り、どのような状況に置かれても、神と人への愛を選びの基準にする道を示しました。右近は、ぶれることなく、一つのことを選び続けたのです。右近が選び続けた道は、福音を聞いて神に従う生き方です。

右近の列福を機に、日本の教会は、右近があかししたイエス・キリストの福音は、確かに信じる価値があり、現代社会に大きな光をもたらすことを力強く訴えていけるでしょう。

PAGE TOP