2016年 四旬節教皇メッセージ(2016.2.10)

「わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない」(マタイ9・13)
聖年の歩みにおけるいつくしみのわざ

2016年 四旬節教皇メッセージ
「わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない」(マタイ9・13)
聖年の歩みにおけるいつくしみのわざ

1. マリア、福音を告げられ福音を告げる教会の姿

 「いつくしみの特別聖年公布の大勅書」の中で、わたしは次のように願いました。「この聖年の四旬節を、神のいつくしみを祝いまた実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごすことができますように」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』17)。神のことばに耳を傾け、「主にささげる24時間」という取り組みを行うよう呼びかけることによって、わたしは、みことば、とりわけ預言的なみことばを祈りのうちに聞くことが何よりも重要であることを強調しようとしました。神のいつくしみは、まさに世界に向けられた宣言ですが、一人ひとりのキリスト者はその宣言を自分で直接、体験するよう招かれています。したがって、わたしはこの四旬節に、神が近くにおられ、ゆるしてくださることをすべての人に示す具体的なしるしとなるように、いつくしみの宣教者を派遣します。
 マリアは、大天使ガブリエルより告げられたよい知らせを受けて、自分を選んでくださった神のいつくしみを、「マリアの賛歌(Magnificat)」の中で預言者のように歌います。したがって、ヨセフの婚約者であるナザレのおとめは、福音を告げる教会の完全な姿です。なぜならマリアは、自らのおとめの胎に実りをもたらした聖霊のわざによって福音を告げられたかたであり、また福音を告げられ続けるかただからです。したがって、預言書の伝統の中でいつくしみは、語源のレベルにおいても、母の胎(rahamim)、さらには寛大かつ誠実であわれみ深い愛(hesed)と密接に結びついています。それらは夫婦と親子の関係の中に見られます。

2.  神の人間との契約、いつくしみの歴史

 神のいつくしみの神秘は、神とその民イスラエルの間の契約の歴史の中に示されています。神はつねにいつくしみ深いかたとして、またどんな状況にあっても、とりわけその契約のきずなが不誠実な行いによって断ち切られ、正義と真理をもってその契約をさらに強く確かめる必要のある悲劇的な場合にも、自らの民に深い愛情とあわれみを注ぐかたとしてご自分を表わしておられます。そこには真の愛の物語があります。父や裏切られた夫の役を神が演じ、子どもや不誠実な妻の役をイスラエルが演じます。このような家庭的なイメージは、――ホセア書に記されているように(ホセア1-2参照)――神がどれほどご自分の民とのかかわりを求めておられるかを明らかにするものです。
 この愛の物語は、人となられた御子において頂点に達します。御父は、御子を「受肉したいつくしみ」(教皇フランシスコ大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』8参照)とするほどに、キリストのうちにご自分のいつくしみを限りなく注ぎます。人として、ナザレのイエスはまさに、どこから見てもイスラエルの子です。それは、今日でも神とイスラエルの契約の核心である「シェマー(Shema)」がすべてのユダヤ人に求めている、神に完全に聞き従うことを受肉したほどです。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・4-5)。神の御子は、花嫁の愛を獲得するためには何でもする花婿です。彼は、花嫁との永遠の婚宴で示される無条件の愛によって、花嫁と結ばれています。
 これは、使徒的「ケリュグマ(告知)」の核心です。そこでは、神のいつくしみが中心的で根本的な位置を占めています。それは、「死んで復活したイエス・キリストにおいて現わされる、救いをもたらす神の愛の美」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』36)であり、「つねにさまざまな方法で聞き続けなければならないもの、カテケージス期間の時期や段階にかかわらず種々のしかたでつねに繰り返し告げられるべき」(同164)最初の告知です。いつくしみは、「罪人に対する神の振る舞いです。神は、悔い改め、回心し、信じるために新たなチャンスを与え」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』21)ることにより、ご自分との関係を修復します。神は、罪人がご自分からどんなに離れていようとも、その人に寄り添いたいと、十字架にかけられたイエスのうちに願っておられます。神はご自分の花嫁のかたくなな心が最後には和らぐことを望みつつ、そうしておられるのです。

3. いつくしみのわざ

 神のいつくしみは、人間の心を変えます。神のいつくしみは、人に真の愛を体験させることによって、今度は人をあわれみ深くします。神のいつくしみがわたしたち一人ひとりの生活を照らし、隣人を愛するよう導き、教会の伝承が精神的、身体的慈善のわざと呼ぶもののために尽力するよう促すのは、たえず新たにされる奇跡です。それらのわざは、信仰は隣人を身体的、精神的に助けるための日々の具体的な行動、すなわち食べさせ、訪れ、慰め、導くこととして表れることを思い出させてくれます。わたしたちはそうした行いによって裁かれるのです。したがって、わたしの願いは、「キリスト者が、身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざについてじっくりと考えてくださることです。それは、貧困という悲劇を前にして眠ったままであることの多いわたしたちの意識を目覚めさせ、貧しい人が神のいつくしみの優先対象であるという福音の核心を、よりいっそう深く理解するための一つの方法となることでしょう」(同15)。キリストのからだは、貧しい人の「拷問を受け、傷つき、鞭打たれ、飢え、追われた姿として、再び新たに見えるようになります。それは、わたしたちが、それらがキリストのからだと気づき、心を込めてそれに触れ、そのからだを支えるためです」(同)。それは、「汚れのない小羊」の苦しみの歴史の中に延長する、空前の驚くべき神秘、無償の愛の燃える柴です。わたしたちはモーセに倣い、この愛の前で履物を脱がずにはいられません(出エジプト3・5参照)。その貧しい人がキリストにおける兄弟姉妹であり、信仰のために苦しんでいる場合はなおさらです。
 死のように強いこの愛(雅歌8・6参照)の前で、もっとも不幸な貧しい人は、自分が貧しいことを認めようとしません。自分は豊かだと思っていますが、実際には、貧しい人の中でもっとも貧しい状態にあります。それは、彼らが罪の奴隷だからです。この罪は、富や権力を、神と隣人への奉仕のためではなく、自分も貧しい物乞いに過ぎないという心の奥底にある気づきを覆い隠すために利用するよう彼らを仕向けます。権力と富を持てば持つほど、人はますます目が見えなくなり、分別を失います。そして、門前で物乞いをしている貧しいラザロ(ルカ16・20-21参照)を見ることができなくなってしまいます。このラザロは、貧しい人の中にあって、わたしたちに回心を乞い求めているキリストの姿です。ラザロは、わたしたちが神から与えられ、おそらく見失っている回心の可能性です。このように目の見えない状態には、自分が全能であるという傲慢な錯覚が伴います。そこには、あらゆる罪の根源である、「神のようになる」(創世記3・5)という邪悪なことばが不気味にこだましています。この錯覚は、社会的、政治的な形で表れることもあります。20世紀の全体主義、そして現代では、神をないがしろにし、人間を道具として用いる群衆にしようとする科学技術重視の特異な考え方に基づくイデオロギーです。今日、その錯覚は金銭への偶像崇拝に基づく誤った開発モデルに結びついた罪の構造としても表れています。この偶像崇拝により、富める個人や社会は、貧しい人々の未来に関心を示さなくなります。彼らは貧しい人々を見ることすら拒み、自分たちの扉を閉めてしまうのです。
 ですから、わたしたち皆にとって、この聖年の四旬節は、神のことばに耳を傾け、慈善のわざを行うことによって自己疎外を克服するのにふさわしい季節です。身体的な慈善のわざを通して、わたしたちは食料や衣服、住居、かかわりを必要としている兄弟姉妹のうちにおられるキリストの肉に触れます。一方、精神的な慈善のわざ――助け、教え、ゆるし、忠告し、祈ること――は、自分たちが罪人であることにより直接的に触れさせてくれます。したがって、身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざを、決して引き離してはなりません。実際、困窮している人のうちにおられる、十字架にかけられたイエスの肉体に触れることにより、罪人は自分も貧しい物乞いであることに気づくという恵みを受けることができます。「マリアの賛歌」の中で「思いあがる者」「権力をふるう者」「おごり暮らす者」と呼ばれる人々も、この道をたどることにより、自分たちのために死んで復活した十字架にかけられたキリストによって、自らにふさわしくないほど愛されていることを知ることができます。人間が知識、権力、富という偶像によって満たすことができると錯覚している永遠の幸せと愛へのあこがれにこたえられるのは、この愛だけです。しかし、高慢な人、富や権力のある人々が、貧しい人の中で自分たちの心の扉をたたき続けておられるキリストにつねに心を堅く閉ざし、地獄という孤独の無限の深淵に陥るよう自らを裁いてしまう危険もつねに残されています。ここで、アブラハムの鋭いことばが、彼らとわたしたち皆の心に新たに響きます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(ルカ16・29)。このことばに注意深く耳を傾けることは、罪と死に対する花婿の最終的な勝利をわたしたちが祝うための最高の備えになります。花婿は今や復活し、ご自分の再来を待ち望む未来の花嫁を清めようとしておられます。
 回心にふさわしい時であるこの四旬節を、無駄に過ごさないようにしましょう。無償で与えられる神のいつくしみのすばらしさの前で、自らが身分の低い、主のはしためであることを認め(ルカ1・38参照)、自分が取るにたらない者であることに気づいた(ルカ1・48参照)最初のかたである、おとめマリアのとりつぎによって祈り求めましょう。

バチカンにて
2015年10月4日
アッシジの聖フランシスコの記念日

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