教皇フランシスコ、2016年5月4日の一般謁見演説:17. 見失った小羊(ルカ15・1-7参照)

5月4日、教皇フランシスコはサンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、一般謁見を行いました。この謁見の中で教皇は、いつくしみの特別聖年に関する連続講話の17回目として、よい羊飼いについて語りました。以下はその全訳です。

17. 見失った小羊(ルカ15・1-7参照)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。
 わたしたちは皆、見失った小羊を肩に担いだよい羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、だれかが居なくなっても決してあきらめずに探してくださる神のいつくしみをつねに表わしています。イエスは、罪人のそばにご自分がいるのは非難されるようなことではなく、信仰を生きる方法を真剣に考えるよう皆を促すために必要なことだと教えるために、このたとえ話を話しました。この話は一方ではイエスの話を聞くためにイエスに近づく罪人たちに注目し、もう一方ではイエスの行いのためにイエスから遠ざかる、疑い深い律法学者たちに目を向けます。彼らはイエスが罪人たちに近づくので、イエスから離れていきます。彼らは、自分が正しいと思っている高慢で尊大な人々でした。

 このたとえ話は、羊飼い、見失った羊、群衆という三種類の登場人物をめぐって展開します。しかし、行動するのは羊たちではなく、羊飼いだけです。したがって、羊飼いのみが真の主人公で、すべてのことが彼次第です。たとえ話は問いかけで始まります。 「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15・4)。羊飼いの行いについては、疑問を起こさせるような矛盾があります。たった1匹の羊のために、99匹の羊をおいていくのは賢明なことでしょうか。しかも、安全な囲い中ではなく、砂漠の中においていくのです。聖書の伝承によれば、砂漠は食べ物も水もなかなか見つけられず、避難する場所もなく、野獣や追いはぎの思い通りになる死の場所です。無防備な99匹の羊はどうしたらよいでしょう。矛盾はまだあります。羊飼いは羊を「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言」った(ルカ15・5-6)と記されています。したがって、羊飼いは他の羊たちを連れに砂漠に戻らかなかったように思われます。一匹の羊を見つけたので、他の99匹の羊は忘れてしまったかのようです。しかし、実はそうではありません。イエスが教えたかったのはむしろ、だれ一人見失うことはできないということです。主は、たった一人の人を見失うことも受け入れられません。神が行うわざは、見失ったご自分の子を探しに出かけ、その子が戻ったことを皆と喜び祝うことなのです。それは燃えるような願いです。99匹の羊でさえ、羊飼いを引きとめ、囲いの中に留めることはできませんでした。彼はこのように言いわけすることもできたかもしれません。「打算的に考えると、1匹を失っても99匹いるなら、大した損失ではありません」。それでも彼が1匹を探しに出かけたのは、彼にとって1匹1匹が大切であり、その1匹がもっとも困窮し、見捨てられ、忘れられた羊だからです。イエスはその羊を探しに行かれるのです。わたしたちは皆、警告されています。罪人をいつくしむのは、神のなさり方です。神はどんなときも忠実に、いつくしんでくださいます。だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は「人を見捨てる」ということばを知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全ないつくしみだからです。

 主の羊の群れは、つねに旅しています。その群れは、主を所有していませんし、自分の枠組みや企ての中に主を封じ込もうとすることもできません。羊飼いは、見失った羊がいるところにおられます。したがって主を探すのは、主がおられるとわたしたちが推測する場所ではなく、まさに主がわたしたちに会いたいと願っておられる場所であるべきです。羊飼いのいつくしみによって描かれた道をたどる以外、羊の群れを再び集める方法はありません。主は、見失った羊を探しながら、群れが再び一つになるよう99匹を促しておられます。そうすれば、羊飼いが背負っている羊だけでなく、すべての群れが「友と隣人」とともに祝うために、羊飼いに従って彼の家に向かうでしょう。

 わたしたちはこのたとえ話についてたびたび考える必要があります。キリスト教共同体には、いつも誰かが欠けており、その人が居なくなると、空白が残ります。それにより、しばしば気力がくじかれ、それは不治の病のように避けられない空白であると考えるようになります。このように、わたしたちは羊の匂いではなく、柵の匂いのする囲いの中に自分を封じ込める恐れがあります。キリスト者はどうでしょうか。わたしたちは閉じこもってはなりません。閉じこもったら、腐った匂いになってしまいます。絶対にいけません。出かけて行く必要があります。自分が「正しい」と思いこみ、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じこもってはなりません。それは、他者との出会いへとわたしたちを導く宣教への熱意が欠けているときに起こります。イエスの目から見ると、完全に見失った羊はいません。再び見つけなければならない羊だけが存在します。このことを理解する必要があります。神にとって、完全に見失った人は存在しません。だれ一人いません。神は最後の最後までわたしたちを探しておられます。よい犯罪人のことを考えてください(訳注:ルカ23・39-43参照)。イエスの目から見たときのみ、完全に見失った人は存在しないのです。したがって、イエスのまなざしはまったく活動的、開放的、挑戦的かつ創造的であり、兄弟姉妹に向かう道を探すために出かけるようわたしたちを促します。どんなに遠く離れていても、羊飼いを遠ざけることはできません。どんな群れも一人の兄弟を拒絶することはできません。見失った人を見つけることは、羊飼いの喜びであり、神の喜びでもありますが、群れ全体の喜びでもあります。わたしたちは皆、主のいつくしみによって見いだされ、集められた羊です。わたしたちは、群れ全体を主に向けてまとめるよう招かれているのです。

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