教皇フランシスコ、2016年10月19日の一般謁見演説:33. 飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませること

10月19日、教皇フランシスコはバチカンで一般謁見を行い、いつくしみの特別聖年に関する連続講話の33回目として、飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませることについて語りました。以下はその全訳です。

33. 飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませること

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 「豊かさ」と呼ばれるものは、ときに人を自分の殻に閉じこもらせ、他の人のニーズに対して鈍感にします。それは、数年経てば失われるその場限りの理想を示すことによって、あらゆる手段を用いて人々を惑わそうとします。まるで、わたしたちの人生は季節ごとに変わる流行であるかのようです。しかし、そうではありません。現実はあるがままに受け入れられ、対処されるべきものであり、わたしたちを何度も緊迫した状況に直面させます。だからこそ、慈善のわざの中に、飢えている人と渇いている人に対するわざがあるのです。飢えている人に食べさせ――今日、非常に多くの人々がそうした状況下にあります――、のどが渇いている人に飲ませることです。メディアは、食料と水の欠乏のために深刻な影響を受けて苦しんでいる人々、特に子どもたちについて頻繁に報道しています。

 ニュース、とりわけ映像によって世論が動かされ、連帯のもとにキャンペーンが次々に立ち上げられています。人々は、おしみなく献金することにより、多くの人の苦しみを軽減するために貢献することができます。こうした愛のわざは重要ですが、それでは直接かかわったことにはならないかもしれません。通りを歩いているときに困窮している人に出会ったり、自宅の玄関で貧しい人が物乞いをしたりしているときには、状況はまったく異なります。彼らはもはや映像ではなく、わたしたちが個人的にかかわっているからです。自分とその人の間にもう距離は存在せず、その人とのかかわりが実感されます。実体験が伴わない貧困は、わたしたちを考え込ませ、悲しませますが、わたしたちに解決策を求めることはありません。一方、生身の男女、子どもの貧困に直面するとき、彼らはわたしたち自身に何かを求めます。

 その後、わたしたちは困窮している人々を避け、遠ざかるという習慣に陥ります。悲惨な事態から目を背け、彼らとの間に距離を置くという時流に流されてしまうのです。貧しい人と出会えば、その人と自分の間にはもう距離はありません。そのときわたしは、どう対応するでしょうか。目をそらして行き過ぎるでしょうか。それとも立ち止まって、相手に語りかけ、その人の境遇に関心を示すでしょうか。もしわたしがそうすれば、「貧しい人に話しかけるなんて、気でも違ったのだろうか」と言う人が必ず現れます。わたしは、なんらかの方法でその人を受け入れられないかと考えるでしょうか。それとも、少しでも早くその人から離れようとするでしょうか。しかしその人は、おそらく食糧と飲み物という必需品を求めているだけです。しばし考えましょう。わたしたちは「主の祈り」を唱えながらも、「わたしたちに日ごとの糧をお与えください」ということばに細心の注意を払っていないことがあるのではないでしょうか。

 聖書の中で詩編作者は「すべての肉なるものに糧を与えるかたに感謝せよ」(詩編136・25)と語っています。飢えるという体験は、厳しいものです。戦争や飢餓を耐えた人は、その厳しさを知っています。しかし、こうした体験は日々、繰り返され、豊かさや浪費と同時に存在しています。使徒ヤコブのことばは現代にも当てはまります。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、からだに必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2・14-17)。なぜなら、そのような信仰は、どんな働きにも、慈善のわざにも結びつかず、愛することもできないからです。飢えている人、渇いている人、そしてわたしの助けを必要としている人は必ずいます。このことを誰かに任せきりにすることはできません。この貧しい人は、わたしを、「わたしの」助けを、「わたしの」ことばを、「わたしの」献身を必要としています。このことは、わたしたち皆にかかわることです。

 福音書の中にもこの教えが記されています。イエスはそれまでご自分の後を追ってきた群衆を見て、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6・5)と弟子たちに尋ねます。「それはできません。群衆を解散させてください」と弟子たちは答えます。ところが、イエスは弟子たちに言います。「いいえ。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(マタイ14・16参照)。イエスは、手持ちのパンと魚をいくつか手に取り、それらを祝福して裂き、皆に配りました。これはわたしたちにとって非常に大切な教えです。それはたとえ少しのものしか持っていなくても、イエスの手にそれらをゆだね、信仰の内に分かち合うなら、あふれるほど豊かなになることをわたしたちに語りかけています。

 教皇ベネディクト十六世は、回勅『真理に根ざした愛』の中で次のように断言しています。「飢えている人に食べさせるとは、普遍教会の倫理的責務です。……食糧への権利と水への権利は、基本的生存権に始まる他の諸権利を追求するうえで、重要な位置を占めます。したがって、分け隔ても差別もなく、すべての人間の普遍的権利として、食糧と水の利用を考える公共の良心を育てることが必要です」(27)。イエスの次のことばを忘れないようにしましょう。「わたしがいのちのパンである」(ヨハネ6・35)。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(同7・37)。

 これらのことばは、わたしたち信者すべてに向けられた呼びかけです。飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませることを通して、イエスの内にいつくしみ深いみ顔を現しておられる神とわたしたちの間に交わりが生まれるのです。

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