2017年 四旬節教皇メッセージ(2017.3.1)

 

2017年四旬節教皇メッセージ
「みことばはたまもの、他の人々はたまもの」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 四旬節は新たな始まりであり、復活祭という確かな行き先、すなわち死に対するキリストの勝利に向かう道です。この四旬節は、わたしたちに回心を強く求めています。キリスト者は「心から」(ヨエル書2・12)神に立ち返り、通常の生活に満足せず、主との友情のうちに成長するよう招かれています。イエスはわたしたちを決して見捨てない忠実な友です。たとえわたしたちが罪を犯しても、イエスはご自分のもとにわたしたちが戻るのを忍耐強く待ってくださいます。そのように待つことを通して、イエスはご自分のゆるす意志を表しておられます(ミサ説教、2016年1月8日参照)。

 四旬節は、教会によって示された断食、祈り、施しという聖なるわざによって霊的生活を深めるのにふさわしいときです。みことばはあらゆるものの礎です。この季節の間、わたしたちはさらに熱意をもってみことばに耳を傾け、熟考するよう招かれています。わたしはここで、金持ちとラザロのたとえ話についてとりわけ考えたいと思います(ルカ16・19-31参照)。この非常に意味深いたとえ話の導きに身をゆだねましょう。この話は、真の幸福と永遠のいのちを得るためにはどのように行動したらよいかを知る鍵をもたらすと同時に、心から回心するようわたしたちを強く促しているからです。

1. 他の人々はたまもの
 このたとえ話は、はじめに二人のおもな登場人物を紹介していますが、貧しい人のほうがより詳細に描かれています。彼は絶望的な状態にあり、立ち上がる力もなく、金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしていました。彼のからだはできものだらけで、犬がやって来てそのできものをなめました(20-21節参照)。これは、何もかも奪われ、辱められた人を描いた闇のような光景です。

 この場面は、貧しい人が「ラザロ」という名であることを考慮に入れると、さらに劇的なものとなります。ラザロとは、文字どおりに訳せば「神は救う」という意味の、希望にあふれる名前です。したがって彼は名もない人ではなく、その特徴もはっきりと描かれています。彼は自分自身の物語をもった人として示されています。彼は金持ちにとっては、いないも同然の存在ですが、わたしたちにとっては、よく知っている、どこか身近な存在であり、顔のある一人の人物です。したがって、彼はたまものであり、かけがえのない宝です。たとえ彼が実際、見捨てられたような境遇に置かれていても、神は彼を求め、愛し、心にかけておられるのです(ミサ説教、2016年1月8日参照)。

 ラザロは「他の人々はたまものであること」をわたしたちに教えています。正しい対人関係は、相手の価値を感謝のうちに認めることによって成り立ちます。金持ちの門前にいる貧しい人もじゃま者ではなく、回心して生き方を変えるよう求める一つの呼びかけです。このたとえ話は何よりもまず、わたしたちの心の扉を他の人々に向けて開くよう招いています。身近な人であれ、見知らぬ貧しい人であれ、一人ひとりの人間はたまものだからです。四旬節は、困窮しているすべての人に向けて扉を開き、彼らのうちにキリストの顔を見いだすのにふさわしいときです。わたしたち一人ひとりが、自分の人生の歩みの中で彼らに出会っています。わたしたちが出会ういのちは皆たまものであり、受け入れられ、敬意をもって愛されるに値します。みことばは、わたしたちがいのち、とりわけ弱いいのちを受け入れ、愛せるように目を開く助けとなります。しかしそのためには、福音が金持ちについて明らかにしている箇所も真摯に受け止めなければなりません。

2. 罪はわたしたちを盲目にする
 このたとえ話は、金持ちの矛盾した言動を手厳しくあばいています(19節)。貧しいラザロとは異なり、この人には名前もなく、ただ「金持ち」と称されているだけです。彼の裕福さは、並外れてぜいたくな衣を着ていることによって分かります。実際、紫は金銀よりも尊い色で、神(エレミヤ書10・9参照)や王(士師記8・26参照)のために取っておかれました。麻布は神聖さを表すほど特別な布でした。このように彼はあり余るほどの富をもち、毎日のようにその富を見せびらかしていました。「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)。彼の中には、罪による腐敗がはっきりと見られます。その腐敗は三段階で次々に進行します。すなわち金銭への執着、虚栄心、そして思い上がりです(ミサ説教、2013年9月20日参照)。

 使徒パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です」(一テモテ6・10)と述べています。これこそが腐敗の要因であり、ねたみと争い、疑惑の源です。金銭は独裁的偶像といえるほど、わたしたちを支配することができます(使徒的勧告『福音の喜び』55参照)。金銭は、わたしたちが善行を行い、人々と連帯するために尽力する際の道具となるのではなく、むしろ利己的な論理にわたしたちと全世界を服従させます。その論理には愛が入る余地はなく、平和も妨げられています。

 このたとえ話はさらに、金持ちの欲深さがどのように虚栄心をもたらすかを明らかにしています。彼は自分ができることを他の人々に見せつけながら、その性格をあらわにします。しかし、その外見は内面的な空虚さを覆い隠しています。彼の生き方は外見という、その存在においてもっとも表面的で一時的なものにとらわれているのです(同62参照)。

 こうした道徳的な堕落の最下層にあるのが思い上がりです。金持ちは王のように着飾り、神のように振る舞い、自分が死を免れない存在にすぎないことを忘れています。金銭欲によって堕落した人にとって、自分以外のものは存在しないも同然であり、周囲の人々は視野に入りません。金銭への執着は、一種の盲目状態をもたらします。飢えて傷つき、辱められて横たわっている貧しい人は、金持ちの目には入りません。

 この人物に目を向ければ、どうして福音が金銭への執着をかくもはっきりと非難しているかが分かります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6・24)。

3. みことばはたまもの
 金持ちと貧しい人ラザロに関する福音は、復活祭を迎える準備をするうえでよい助けとなります。灰の水曜日の典礼は、この金持ちと同じような体験を、非常に感動的なかたちで味わうようわたしたちを招いています。司祭はわたしたちの頭に灰をかけながら、「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と繰り返し唱えます。実際、金持ちも貧しい人も死に、このたとえ話の主要な部分は死後の世界で起こります。「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」(一テモテ6・7)ことを、この二人は直ちに理解します。

 わたしたちの視線も死後の世界に注がれます。金持ちはそこでアブラハムと長い間、話します。彼がアブラハムを「父」(ルカ16・24、27)と呼んだことは、彼が神の民に属することを表しています。この箇所は彼の人生をさらに矛盾に満ちたものにします。彼はそれまでは、神と自分の関係について何も語っていなかったからです。実際、彼の人生には神の入る余地はありませんでした。彼の唯一の神は自分自身だったのです。

 金持ちは、死後の世界でひたすら苦しみにさいなまれる中でラザロを見つけます。彼はその貧しい人がわずかな水で自分の苦しみを和らげてくれることを望みます。彼がラザロに求めた行いは、彼自身がすることができたにもかかわらず、決してやらなかったことと同じ種類のことです。しかしアブラハムは彼に答えます。「子よ、思い出してみるがよい。おまえは生きている間によいものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(25節)。 死後の世界ではある種の公平さが回復し、生きている間の悪いものは、よいもので埋め合わせられるのです。

 このたとえ話はさらに続き、すべてのキリスト者にメッセージを伝えます。金持ちは、まだ生きている自分の兄弟たちのもとにラザロを送って、彼らによく言い聞かせて欲しいとアブラハムに頼みます。しかしアブラハムは答えます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)。金持ちの反論に対して、アブラハムは次のように付け加えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 こうして金持ちの真の問題が明らかになります。彼の悪の根源は、「みことばに耳を傾けないこと」です。その結果、彼は神を愛さなくなり、隣人を軽蔑するようになりました。みことばは人々の心を回心させ、再び神に立ち返らせることのできる、生き生きとした力です。みことばというたまものに心を閉ざせば、兄弟姉妹というたまものにも心を閉ざしてしまいます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、四旬節はみことば、諸秘跡、そして隣人の中に生きておられるキリストと新たに出会うのにふさわしいときです。荒れ野で40日間過ごし、「悪魔」の誘惑に打ち勝った主が、わたしたちのたどるべき道を示してくださいます。わたしたちが真の回心の道を歩めるよう、聖霊が導いてくださいますように。そうすれば、わたしたちはみことばというたまものを再び見いだし、自分を盲目にする罪を清められ、困窮している兄弟姉妹の中におられるキリストに仕えることができるでしょう。こうした霊的な刷新を、世界各地の数多くの教会団体が行っている四旬節キャンペーンに参加することを通しても明らかにし、唯一の人間家族における出会いの文化をはぐくむようわたしはすべての信者を励まします。互いのために祈りましょう。キリストの勝利にあずかることによって、わたしたちが弱い人々や貧しい人々に自分自身の扉を開くことができますように。そのときわたしたちは、復活祭の喜びに満たされて、あかしすることができるのです。

バチカンにて
2016年10月18日
聖ルカ福音記者の祝日
フランシスコ

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