教皇フランシスコ、2017年6月14日一般謁見演説:26.愛されている子であることは確かな希望

 

教皇フランシスコ、2017年6月14日一般謁見演説
キリスト教的希望に関する連続講話

26.愛されている子であることは確かな希望

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日の謁見は2ヵ所で行われますが、巨大スクリーンによって結ばれています。病者の方々は暑さをしのぐためにパウロ六世ホールに、そしてわたしたちはここサンピエトロ広場にいます。それでも皆、一緒です。つねに一致をもたらす聖霊によって結ばれているのです。ホールにいる皆さんとあいさつを交わしましょう。

 わたしたちは皆、愛なしには生きられません。しかしわたしたちは、愛は獲得すべきものであるという悪しき考え方の奴隷になりがちです。おそらく大半の現代人の不安はそこから発しています。すなわち、もし強く、魅力的で美しくなければ、だれも自分のことを気にかけてくれないと信じているのです。多くの人々が今日、心の空白を埋めるために人より際立ちたいと思います。まるで認められることをつねに求めているかのようです。しかし、皆が周りの人々から注目を浴びたいと望み、だれも無償の愛を与えようとしない世界を思い描くことができるでしょうか。そのような世界を想像してみてください。無償の愛が存在しない世界です。それは人間の世界のように見えますが、実は地獄のようです。人間のナルシシズムは、多くの場合、孤独感と孤立感を覆い隠しています。不可解に思える多くの行いの背後には、ある問いかけが隠されています。自分は名前で呼ばれるに値しない人間、愛される価値のない人間なのだろうかという疑問です。愛があれば、つねに名前で呼んでくれるからです。

 若者が愛されていないとき、また愛されていると感じられないとき、暴力が起こる可能性があります。社会における憎しみや破壊行為の背後には、あまり認識されていない心情がしばしば隠されています。悪い子どもはいないのと同じように、完全に悪い若者はいません。しかし不幸な人々は確かにいます。愛を与えて受けるという体験がなかったら、何がわたしたちを幸せにしてくれるでしょう。人々の生活は視線を交わすことによって成り立っています。だれかがわたしたちを見つめ、まずこっそり微笑みかけます。だからこそわたしたちは、悲しんでいる人に惜しみなく微笑みかけ、その人たちのために道を開くことができるのです。視線を交わし、目を見つめることにより、心の扉が開かれます。

 神がわたしたちのもとに来られる最初のステップは、わたしたちに先んじて与えられる無償の愛による一歩です。神が最初に愛してくださいます。神がわたしたちを愛してくださるのは、わたしたちの中に愛を生み出す何かがあるからではありません。神がわたしたちを愛してくださるのは、神ご自身が愛であり、愛はその本性上、広まって自らを与えるものだからです。神は、わたしたちが回心するかどうかをご自分の恵みの条件にすることはありません。それは神の愛の結果にほかなりません。聖パウロはこのことを完全な形で表現しています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)。わたしたちがまだ罪人であったときにも、無償の愛は与えられました。放蕩息子のたとえのように、わたしたちが「遠方に」いて、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思」(ルカ15・20)ってくださいます。わたしたちへの愛のために、神は出て来られ、通る必要もないこの荒れ地に、わたしたちを探しに来てくださいました。わたしたちが悪を行っていても、神はわたしたちを愛してくださいました。

 父親や母親でなければ、だれがこのように愛することができるでしょう。母親はたとえ息子が刑務所にいても愛し続けます。わたしが前にいた教区では、多くの母親が刑務所を訪れるために並んでいました。彼女たちは堂々としていました。たとえ刑務所にいても、その子が息子であることに変わりはありません。入所を許される前に検査を受ける間、彼女たちは入り口で屈辱を受けます。「彼はわたしの息子です」。「でも、あなたの息子は非行少年ですよ」。「わたしの息子です」。母親や父親が抱くこの愛こそが、どのように神が愛してくださるかを理解する助けとなります。母親は、裁きが無効になることを望んでいるわけではありません。すべての過ちは償われる必要があります。それでも母親はわが子のために苦しみ続けます。たとえその子が罪人であってもわが子を愛します。神もわたしたちに同じようにしてくださいます。わたしたちは神によって愛されている子です。神が一部の子らを愛さないことがあるでしょうか。それはありません。わたしたちは皆、神に愛されている子です。わたしたちを無からいのちへと引き寄せてくださった神は、わたしたちの人生をののしることばではなく、優しいことばをかけてくださいます。すべてのことに共通する真理とは、聖霊によって御父と御子を結ぶ愛のきずなです。わたしたちも神の恵みによって、そのきずなに招かれています。イエス・キリストのうちにわたしたちは皆、必要とされ、愛され、望まれてきました。神は、どんな罪や悪しき選択によっても完全に消されることのない根源的な美を、わたしたちの中に刻み込んでくださいました。神の目には、わたしたちはつねによい水がほとばしる小さな泉のように映ります。イエスはサマリアの女に言います。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)。

 不幸な人の心を変えるためには、どんな薬が必要でしょう。幸福でない人の心を変えることができるのは、どんな薬でしょうか。(一同が「愛」と答える)。もっと大きな声で。(「愛」と叫ぶ)。素晴らしい。皆さん、よくできました。どうしたら愛していることが相手に伝わるのでしょうか。まず最初に抱きしめます。自分は必要とされていると感じてもらうことが大切です。そうすれば相手は悲しまなくなります。憎しみが死を求めるよりもずっと強いしかたで、愛は愛を求めるのです。イエスはご自分のためではなく、わたしたちの罪がゆるされるために、わたしたちのために死んで復活してくださいました。したがって、それはすべての人にとって復活のときであり、貧しい人、とりわけ墓穴のようなところに3日よりもはるかに長い間、横たわっていた人々が、失意から再び立ち直るときです。そこでは、わたしたちの顔に自由の風が吹き、希望のたまものが芽吹きます。その希望は、わたしたちをありのままに愛しておられる神の希望です。神はわたしたち全員をいつも愛してくださるのです。

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