教皇フランシスコ、2018年1月21日「お告げの祈り」でのことば

 

教皇フランシスコ、2018年1月21日「お告げの祈り」でのことば
チリとペルーへの司牧訪問における若者へのあいさつ
プラザ・デ・アルマス広場(リマ・ペルー)にて

親愛なる若者の皆さん。

 わたしはこの場に来られたことを大変嬉しく思っています。とくに若者に関する世界代表司教会議(シノドス)に向けて準備を進めている今年、この集いはとても重要です。皆さんの顔、皆さんの問いかけ、皆さんの生き方は、教会にとって欠かせないものであり、その重要性が認められるべきです。わたしたちはさらに、恐れることなく愛し、イエスのためにいのちをかけている、この地の多くの若者の勇気に見習わなければなりません。

 友である皆さん、皆さんにはいかに多くの模範があることでしょう。聖マルチノ・デ・ポレスのことをわたしは考えています。この若者が夢をかなえるのを阻むものは何もありませんでした。彼が人々とともに生き、愛するのを阻むものは何もありませんでした。主が最初に愛しくださることを彼は知っていたからです。彼は欧州人と先住民族との間に生まれた子であったために、多くの苦難を味わいました。人々から見ても、彼の友人から見ても、彼はすべてを失ったように見えました。それでも彼は、人生の秘けつを一つ知っていました。それは信頼すること、自分を愛してくださる主を信頼することです。なぜだか分かりますか。主は皆さん一人ひとりを信頼し、絶えずそうし続けておられるのと同様に、彼のことを信頼しておられたからです。主はわたしたち一人ひとりに何かを託してくださり、それに対する応えとして、わたしたちは主を信頼するのです。心の中で各自、考えましょう。「主は何をわたしに託されたのだろう」。皆さん、「主は何をわたしの心の中に託されたのだろう」と考えてください。

 そんなことはとてもできないと言うときもあるでしょう。確かにそうでしょう。ときには悲観的な考えをもったり、さまざまな状況に圧倒されていると感じたりすることでしょう。周囲の人々が優勢で、自分たちは「ワールドカップからはじき出されている」と感じるかもしれません。しかし、そうではありません。自分が相手にされないと感じるときにも、信頼し続けるのです。

 自分は願いや夢を果たすには弱すぎると、感じるときもあります。わたしたちは皆、そのような状態に陥ります。信仰が消えそうなときには、イエスがそばにおられることを思い出してください。決してあきらめないでください。希望を失ってはなりません。天でわたしたちを見守っている聖人たちのことを思い出してください。彼らのもとに行き、祈り、絶えず取り次ぎを求めてください。過去の聖人だけでなく、現在の聖人に対してもそうしてください。この地は聖人の地であり、多くの聖人がいます。ペルーは聖人の地です。知っている人に助けとアドバイスを求めれば、よい助言を得ることができるでしょう。彼らの顔は喜びと平和で輝いているからです。人生の旅路を、彼らとともに歩んでださい。

 もう一つ、大切なことがあります。イエスは活動している皆さんを見たいと望んでおられます。皆さんが理想を追い求め、イエスの命令に熱心に従う様子を見たいと思っておられます。イエスは、真の幸せへの道に皆さんを導くでしょう。それは平易ではありませんが、胸をわくわくさせる道です。それは一人ではなくチームで歩み、チームの各メンバーが精一杯、貢献する道です。イエスははるか昔にリマの聖ローザ、聖トゥリビオ、聖ホアン・マシアス、聖フランシスコ・ソラノなどの多くの聖人を頼りにしたように、皆さんを頼りにしています。そして今日イエスは、彼らのようにご自分に従う備えができているかどうか皆さんに尋ねています。(一同「もちろん」と答える)。今日も明日もイエスに従いたいと望みますか。(「もちろん」と答える)。今週中ずっとですか。(「もちろん」と答える)。あまり自信をもちすぎてはいけません。イエスに従いたいと思ったら、イエスに従うために心を準備できるようイエスに願い求めてください。

 皆さん、主は希望をもって皆さんを見守っておられます。主は決してわたしたちに対して失望しません。わたしたちは、よい人だと思っていた友達にあまり良くない点があることに気づき、その人に失望し、その人から遠ざかることがあります。イエスは決してそうではありません。「しかし神父様、ご存じのように、わたしは言ったこととは違うことをやってしまうことがあります。わたしの人生はあまり清らかではありません。」それでも、イエスは皆さんに失望しません。ここで少し、沈黙しましょう。各自で自分の心の中を見つめ、自分の人生がどのようなものか考えましょう。よいもので満たされたときもあれば、悪いものにまみれているときもあるでしょう。それでもイエスは皆さんに失望しません。ですからイエスに心からこう言いましょう。「主イエス、感謝します。悪いものにまみれているときにも、わたしに寄り添うために来てくださり、ありがとうございます。」皆さん、「主イエス、感謝します」と、イエスに向けて唱えましょう(一同、繰り返し唱える)。

 皆さんはデジタル上で修正された写真を見て楽しんでいるようですが、それは画像だけのことです。他の人々や世界、自分自身をフォトショップで修正することはできません。色彩の調整や画質の向上は画像だけのものであって、友人に当てはめることは決してできません。とても美しい写真があっても、それは完全に偽物です。心を修正することはできません。なぜなら心は真の愛と幸せを見いだす場であり、自分がどんな人間であるかをイエスに示す場だからです。皆さんの心はどのようになっていますか。

 イエスは、心に「化粧」をしないよう皆さんに求めています。イエスはありのままの姿の皆さんを愛し、一人ひとりのために夢を抱いています。イエスが決してわたしたちに失望しないことを、どうか忘れないでください。皆さんが失望したときには、聖書を手に取り、イエスが選ばれた友たちのことを思い起こしてください。

 モーセは話すのが不得手であり、アブラハムは老人、エレミヤはとても若く、ザカリアは背が低く、弟子たちはイエスに祈るように言われても眠ってしまい、マグダラのマリアは人々から罪びとと呼ばれ、パウロはキリスト者の迫害者でした。ペトロもイエスを否定しました。教皇はそのペトロの後継者ですが、ペトロはイエスを知らないと言いました。まだまだ例を挙げることができます。イエスは欠点をかかえた人々を自分の友にしたいと願ったのと同じように、わたしたちにもありのままの姿を求めておられます。もちろん、それらの欠点を正そうとしますが、ありのままの姿を愛してくださいます。主はそのように皆さんを愛しておられます。決して心に化粧をせずに、ありのままの姿をイエスに見せてください。そうすれば、皆さんが人生の道を前に進めるよう、イエスが助けてくださるでしょう。

 イエスがわたしたちを見るとき、イエスはわたしたちがどれほど完全であるかを考えているのではなく、イエスに与え、イエスに従う愛を心に抱いているかどうかを考えています。それこそが、イエスにとって重要なことであり、もっとも大切なことなのです。「わたしは心の中にどれほどの愛を抱いているだろうか」。わたしは、その答えが聖母にも向けられるよう望みます。「祝福されたおとめである聖母よ、わたしの心にある愛に目をむけてください。その愛は小さいでしょうか、それとも大きいでしょうか。わたしはそれが愛なのかどうかも分かりません」。

 皆さんの人生のあらゆるときに、皆さんの旅路のすべての十字路、とりわけ重要な決断を下さなければならないときにも、マリアが皆さんに寄り添っておられることを忘れないでください。失望せずに、一緒に前に進みましょう。人生は堂々と顔を上げて生きるに値するものだからです。神が皆さんを祝福してくださいますように。

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