教皇フランシスコ、2018年2月7日一般謁見演説:9.ことばの典礼――2.福音朗読と説教

 

教皇フランシスコ、2018年2月7日一般謁見演説
ミサに関する連続講話

9.ことばの典礼――2.福音朗読と説教

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 ミサに関する講話を続けましょう。わたしたちは朗読のところまで来ました。

 ミサの中の「ことばの典礼」で行われる、神とその民との対話は、福音朗読で頂点に達します。その前にアレルヤ唱が唱えられますが、四旬節には他の詠唱が唱えられます。「これによって、信者の集会は福音朗読によって自らに語りかける主を迎えてあいさつします」(1)。キリストの神秘が聖書における啓示全体を照らしているのと同じように、ことばの典礼では福音朗読が、その前に読まれる新旧聖書朗読の意味を理解する上での光となります。「キリストはやはり聖書全体の中心であり充満です」(2)。つねにイエス・キリストが中心なのです。

 したがって、典礼は福音朗読を他の朗読と区別し、福音朗読に特別な栄誉と尊敬を示します(3)。実際、福音朗読は、叙階された聖職者によって朗読されます。そして最後にその聖職者は、福音書に接吻します。会衆は立ち上って福音朗読を聞き、額と口と胸に十字架のしるしをするよう求められます。そして、福音朗読を通してご自分の力強いことばを響かせているキリストの栄誉が、ろうそくと香によってあがめられます。会衆はこれらのしるしによって、自分たちを回心させ、変える「よい知らせ」をもたらすキリストが、そこにおられることを確認します。「主に栄光」、「キリストに賛美」という応唱よって示されているように、そこでは直接的な会話が行われています。わたしたちは立って、福音朗読を聞きます。しかし、そこでわたしたちに語りかけているのは、キリストです。直接、会話しているからこそ、注意深く耳を傾けるのです。語りかけているのは主なのです。

 したがって、わたしたちが福音書を読むのは、物事がどのように起こるのかを知るためではありません。そうではなく、イエスがかつて行われたこととイエスのことばを知るために福音書に耳を傾けるのです。しかも、そのことばは生きています。福音書の中のイエスのことばは今も生きており、わたしたちの心に触れます。したがって、心を開いて福音朗読を聞くことは非常に重要です。それは生きていることばだからです。聖アウグスティヌスが記している通りです。「福音はキリストの口。キリストは高きところにおられ、つねに地上に語りかけておられる」(4)。典礼の中で「キリストは今も福音を告げられる」(5)ことが真実だとすれば、わたしたちはミサに参加することにより、キリストに応えなければなりません。福音を聞き、自分たちの人生において応えるのです。

 キリストは、福音朗読後に説教する司祭のことばも、ご自分のメッセージを伝えるために用います(6)。第二バチカン公会議は、典礼そのものの一部として説教を大いに勧めています(7)。説教はその場限りの講話でも、講演でも、教訓でもありません。今、わたしが話している講話とも違います。説教は別のものです。説教とは何でしょうか。説教は、「神とその民の間ですでに始まっている対話の再開」(8)であり、その対話を生活の中で実現させるためのものです。福音を本当の意味で解釈することこそ、わたしたちの聖なる生き方です。マリアと聖人たちに起きたように、主のことばは、わたしたちの中で肉となり、行いとして表れることによって、その旅を締めくくります。前回、わたしが話したことを思い出してください。主のことばは耳から入り、心に届き、手に伝わってよい行いをもたらします。説教も主のことばの後に続きます。そして、主のことばが心を通って手に届くようにするために、同じ道をたどるのです。

 わたしは使徒的勧告『福音の喜び』の中で、すでに説教について触れました。そして、典礼の流れは、「生活を変えるほどの聖体におけるキリストとの交わりへと、会衆と説教者自身を導くものとなるよう説教に求めて」(9)いることを思い起こしました。

 説教者――司祭、助祭、司教などの説教をする人――は、ミサのすべての会衆のために真に奉仕しながら、自らの職務を遂行しなければなりません。その一方で、会衆も自分の務めを果たさなければなりません。まず、心構えをして、しっかりと注意を傾けるのです。そして、説教者には長所も限界もあることを認識しつつ、主観的な思い込みをしないようにします。説教が長かったり、焦点がぼけていたり、分かりづらかったりするために、退屈になることもあるでしょう。一方、先入観も妨げとなります。説教者は、自分自身のことを伝えているのではなく、イエスに自分の声を差し出して説教をし、イエスのことばを伝えていることを認識しなければなりません。また、説教は十分に準備され、簡潔で短いものでなければなりません。ある司祭が言っていたのですが、彼が故郷に戻った際、「説教のないミサが行われている教会を友達と見つけたんだ。うれしいよ」と父親が語っていたそうです。説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出てたばこを吸ったりしている光景を幾度、見ることでしょう。ですから、どうか説教は簡潔で、しっかり準備されたものにしてください。司祭、助祭、司教の皆さん、それではどのように説教を準備したらよいでしょう。どんな準備をすべきでしょうか。祈り、みことばを学び、簡潔で明解な要約をつくって準備するのです。どうか、10分以内の長さにしてください。

 最後に申し上げますが、ことばの典礼における福音朗読と説教を通して、神はご自分の民と対話しておられます。そして神の民は、敬意をもって注意深く神のことばを聞きつつ、神がそこにおられ、働いておられることを認識します。このように、「よい知らせ」に耳を傾けるとき、わたしたちは回心し、変えられます。それにより、わたしたちは自分自身と世界を変えることができます。なぜでしょうか。神のことばである福音は、よい行いをするために耳から入り、心に伝わり、手に届くからです。

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