教皇フランシスコ、2018年6月27日一般謁見演説:3.神の愛は法を超越し、法に意味を与える

 

教皇フランシスコ、2018年6月27日一般謁見演説
十戒に関する連続講話

3.神の愛は法を超越し、法に意味を与える

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日の一般謁見は、先週の水曜日と同じように行われます。パウロ六世ホールには大勢の病気を患っている方々がいます。彼らが暑さを避け、より快適に過ごせるように、こうしているのです。巨大スクリーンを通して彼らも謁見に参加しています。ですから、わたしたちは一緒です。つまり二つの別々の謁見ではなく、ただ一つの謁見が行われているのです。パウロ六世ホールにいる病者の方々にあいさつしましょう。引き続き十戒についてお話しましょう。前回、述べたように、十戒はおきてというよりは、ご自分の民への神のことばです。神はそのことばによって、ご自分のいつくしみ深いことばに従いながら、ご自身の民が正しく道を歩めるようにしておられます。

 十のことばはこのように始まります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20・2)。この冒頭は、その後に続く真の法にふさわしくないように思えますが、決してそうではありません。

 なぜ、神はご自身と解放についてこのように宣言しておられるのでしょう。なぜなら人々は紅海を渡った後にシナイ山にたどり着いたからです。イスラエルの神はまず救い、それから信頼を求めておられます(1)。つまり、十戒は神の寛大な心から始まります。神は、最初に与えてからでなければ、決して求めません。最初に救い、最初に与え、それから求めておられます。いつくしみ深い御父はそのようなかたです。

 最初の宣言「わたしは主、あなたの神」がいかに重要であるか学びましょう。ここには所有格のことばがあります。結びつきと帰属関係が存在しています。神はかかわりのないかたではありません。神は「あなたの」神です(2)。このことは十戒全体を照らすと同時に、キリスト者の行いの秘訣を明らかにします。なぜなら、イエスご自身も同じように、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15・9)と言っておられるからです。キリストは御父によって愛され、その愛をもってわたしたちを愛してくださいます。キリストはご自身ではなく、御父を第一に考えます。感謝の念ではなく、自分自身から始まっているために、わたしたちの行いには、しばしば誤りが伴います。自分自身から始まる人は、どこに行きつくでしょうか。自分自身に行きつきます。道を切り開くこともできずに、自分自身に戻ってきます。そのような利己的な態度でいるからこそ、「わたし一人だ。わたしと一緒にいるわたし。わたしのためのわたしだ」と冗談めかして言うようになるのです。その人は自分自身から始まり、自分だけの中で終わりを迎えるのです。

 キリスト者の生活は寛大な御父に対する、感謝の気持ちにあふれる応答にほかなりません。自分の「責務」だけを果たすキリスト者は、「わたしたちの」神と人格的な体験をすることはできません。これも、あれもしなければならないと言って、義務のことばかり考えていますが、何かが欠けています。その義務の基盤は何でしょうか。その基盤は、最初に与えてから命令する父なる神の愛です。

 結びつきよりも法を優先させることは、信仰の旅には役立ちません。もし、自由ではなく、義務や責任や堅実さから話を始めるなら、若者がキリスト者になりたいと、どうして思うでしょうか。キリスト者になることは、自由への旅路です。十戒は皆さんを利己主義から解放します。皆さんを解放するのは、神の愛が皆さんを前へと導くからです。キリスト者の養成は、意志の力ではなく、救いを受け入れること、愛されるがままにまかせることに基づいています。最初に紅海があって、それからシナイ山です。最初に救いが行われます。神は紅海でご自分の民を救い、それからシナイ山でその民がなすべきことを告げます。その民は、自分たちが義務を果たすのは、愛してくださる御父によって救われたからであることを知っています。

 感謝の念は、聖霊が訪れた心を表す一つの特徴です。神に従うためには、神の恩恵を覚えていることが、何よりも必要です。「それらの恩恵を忘れない人は、美徳と正義に基づくあらゆる行いに向けて自らを成長させることができる」(「修道士小規定」56)と、聖バジリオは述べています。それでは、わたしたちはどうすればよいでしょうか。思い起こす練習をしてください(3)。わたしたち一人ひとりのために、神はいかに多くの素晴らしいことをしてくださったでしょう。天の御父はいかに寛大なかたでしょう。沈黙のうちに少しの間、練習するよう、皆さんに提案したいと思います。それぞれが自分の心の中で答えてください。神は自分のためにどれほど多くの素晴らしいことをしてくださったでしょう。これが問題です。各自、沈黙のうちに答えてください。神は自分のためにどれほど多くの素晴らしいことをしてくださったでしょう。それこそが神による解放です。神は多くの素晴らしいことをしてくださり、わたしたちを解放しておられます。

 しかし中には、自分は神による解放を真に体験していないと感じる人もいます。それは起こりうることです。自分の心の中を見つめても、義務感しか見いだせないのかもしれません。神の子どもではなく、霊的なしもべになっています。この場合、どうしたらよいでしょうか。選ばれた民もそうでした。出エジプト記には次のように記されています。「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(出エジプト2・23-25)。神はわたしのことを考えてくださいます。

 十戒の最初に示された神の救いのわざは、このうめき声への答えです。わたしたちは自力で自分自身を救うのではありませんが、助けを求める叫び声をあげることはできます。「主よ、わたしを救ってください。道をお示しください。主よ、わたしのことを気にかけてください。主よ、ささやかな喜びを与えてください」。これは助けを求める叫びです。利己主義から、罪から、隷属のくさりから解放されることを望むかどうかは私たち自身にかかっています。この叫びは重要です。それは祈りです。それは、自分たちの中でまだ抑圧され、解放されていない部分があることに気づくことです。わたしたちの魂の中には多くの解放されていない部分があります。「わたしを救ってください。助けてください。わたしを解放してください」。それは主に向けた美しい祈りです。神はわたしたちのくさりを壊すことがおできになりますし、そう望んでおられるので、その叫び声を待っておられます。神は抑圧された状態で生きるようわたしたちに呼びかけたのではありません。神はむしろ、自由になり、感謝しながら生き、わたしたちに多くを、私たち自身が与えるよりもはるかに多くを与えてくださる神に喜んで従うよう呼びかけておられます。これは素晴らしいことです。神がわたしたちの中でこれまでになされたこと、今なさっていること、これらかなされることにより、神がつねに賛美されますように。

PAGE TOP