教皇フランシスコ、2018年10月31日一般謁見演説:11-2. キリストのうちに完成される結婚への召命

 

教皇フランシスコ、2018年10月31日一般謁見演説
十戒に関する連続講話

11-2. キリストのうちに完成される結婚への召命

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今日は、キリストの忠実な愛こそが人間の愛情の素晴らしさを味わうために必要な光であることに焦点をあてながら、「姦淫してはならない」という十戒の六番目のことばに関する講話を締めくくりたいと思います。わたしたちの愛情は、忠実、受容、いつくしみのうちに示される愛への招きにほかなりません。これはとても重要なことです。愛はどのように示されるのでしょう。忠実と受容といつくしみのうちに示されます。

 しかし、このおきては明らかに婚姻における忠実さにかかわるものですから、結婚の重要性についてさらに考察を深めることが適切であると思われます。聖書のこの箇所、使徒パウロの手紙の中のこの箇所(エフェソ5・25、28、31-32参照)は、なんと革新的なのでしょう。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛すべきだと言っているのですから、人類学的に当時のことを考えても、非常に革新的です。おそらく当時、このことばは結婚に関するもっとも革新的なことばだったことでしょう。それは愛の道を絶えず歩むことです。ここで自問しましょう。忠実さを求めるこのおきては、誰に向けられているのでしょう。配偶者に対してのみでしょうか。このおきては、まさにあらゆる人に向けられています。それはすべての人に向けられた、父としての神のことばです。

 人間の成熟への旅は、愛の旅と同じ道をたどることを思い起こしましょう。愛の旅は気配りを受けることから、気配りできるようになることへと、さらには、いのちを受けることから、いのちを与えることへと進みます。大人になることは、夫婦や親としての能力を生活のさまざまな状況の中で発揮することです。その中には人の重荷を自ら背負う力や、相手をしっかりと愛する力といった、現実を受けとめられる人、他者と深い人間関係を結ぶことのできる人がもつ全般的な能力が含まれます。

 それでは、不義を犯す人、淫らな人、忠実でない人とはどんな人でしょう。自分のためにしか生きられず、自分の幸せと満足感のもとにしか状況を判断できない未熟な人です。したがって、「結婚する」ためには、式を挙げるだけでは不十分です。「わたし」から「わたしたち」へ、一人で考えることから二人で一緒に考えることへ、一人で生きることから二人で生きることへと、旅を進めなければなりません。それは美しく、素晴らしい旅です。自分中心主義から脱することができたら、すべての行いが結婚にふさわしくなります。相手を受け入れ、自らをささげる姿勢で、わたしたちとして働き、話し、決断し、他者と出会うようになるのです。

 この意味で考えれば、キリスト者の召命は――ここで視野を広げて、あらゆるキリスト者の召命について考えます――婚姻的です。司祭職もそうです。キリストと教会における司祭職への召命とは、すべての愛情、具体的な心配り、そして主から与えられた知恵をもって共同体に仕えるよう求める呼びかけだからです。教会が求めているのは、司祭の「役割」を果たしたいと思っている人ではなく――そういう人は必要ないので、家にいた方がよいでしょう――、キリストの花嫁である教会への無条件の愛で、その心を聖霊によって動かされる人です。司祭職とは、父としての心配り、夫や父としての優しさと力をもって神の民を愛することです。キリストのうちに貞潔さをもって叙階されることは、実り豊かな母性と父性の結びつきを、忠実さと喜びをもって生きることでもあるのです。

 もう一度繰り返しますが、あらゆるキリスト教の召命は愛のきずなの実りであり、婚姻的です。その愛のきずなのうちに、わたしたちは皆、新たに生まれます。冒頭で読まれたパウロの手紙に記されているように、それはキリストとの愛のきずなです。キリストの忠実さ、キリストの優しさ、キリストの寛大さから、わたしたちは信仰のうちに結婚と、あらゆる召命を見つめ、性別のあることの意義をしっかりと理解します。

 人間の中では霊とからだが離れずに一つに結ばれていますが、人間には男女の両極があります。このことは、愛し、愛されることを運命づけるとても素晴らしい事実です。人間のからだは楽しむための道具ではなく、愛を求める呼び声が発せられるところです。真の愛には、容姿だけで判断する傾向も情欲も入り込む余地がありません。男女にはそれ以上の価値があります。

 このように「姦淫してはならない」というおきては、否定文の形式をとっていますが、原初の呼びかけへとわたしたちを導いています。それは、イエスがわたしたちに啓示し、与えてくださった夫婦の愛を完全に忠実に生きるようにとの呼びかけなのです(ローマ12・1参照)。

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