教皇フランシスコ、2018年11月28日一般謁見演説:14-2.キリストにおける新たなおきてと、聖霊に従った願い

 

教皇フランシスコ、2018年11月28日一般謁見演説
十戒に関する連続講話

14-2.キリストにおける新たなおきてと、聖霊に従った願い

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 十戒に関する連続講話は今日で終わります。わたしたちは「願い」を主なテーマとするこの講話を通して、つねにキリストにおける完全な啓示の光のもとに、これまでの歩みを振り返り、十戒を読み進めてきた全行程をまとめることができるでしょう。

 わたしたちは信頼関係と従属関係の基盤となる「感謝の念」から初めました。神は見返りを求めずに、さらに多くのものをお与えになることについて、わたしたちは考えました。神はご自分に従うよう招いておられますが、それは、わたしたちを支配している偶像という偽りの存在からわたしたちを解き放つためです。実際、この世の偶像のうちに自己実現を求めることは、わたしたちをむなしくし、隷属させるだけです。わたしたちを育て、成熟させるのは、キリストのうちに、父親としてわたしたちをご自分の子にしてくださる神との結びつきにほかなりません(エフェソ3・14-16参照)。

 そのためには祝福され、解放されなければなりません。そうしてはじめて真正な安らぎが訪れます。詩編作者が言うとおりです。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」(62・2)。

 この解放されたいのちは、これまでの人生を受け入れ、幼児期から現在に至るまで、わたしたちが成長し、周囲の現実や人々を正しく判断できるようになる中で体験したことと折り合いをつけます。こうしてわたしたちは、隣人との交わりに入ります。その交わりは、イエス・キリストのうちに神によって示された愛から生じるもので、忠実さ、寛大さ、真正さの美への招きでもあります。

 しかし、そのように――忠実さと寛大さと真正さの美のうちに――生きるためには、聖霊が宿る(エゼキエル11・19、36・26参照)「新しい心」が必要です。古い心から新しい心への「入れ替え」は、どのように起こるのでしょうか。それは「新たな願い」というたまもの(ローマ8・6参照)を通してなされます。そのたまものは、主の「山上の説教」(マタイ5・17-48参照)に示されているように、神の恵みによって、とりわけイエスによって完成された十戒を通して、わたしたちの中に注がれます。十戒に従う生き方――感謝にあふれ、自由で、真正で、祝福され、成熟した生き方、忠実さと寛大さと真正さを備えたいのちを守り、愛する生き方――を思い浮かべるとき、わたしたちは知らず知らずのうちに、キリストの前に立ち戻ります。十戒はイエスの「レントゲン写真」です。まるで聖骸布のように、イエスの顔が画像として浮かびあがります。聖霊はこのようにわたしたちの心を豊かにし、「聖霊の願い」というたまものをわたしたちの心に注ぎます。それは聖霊に従う願い、聖霊のリズムにのった願い、聖霊の音楽に合わせた願いです。

 イエスをみつめれば、美と善と真理を見いだすことができます。そして聖霊は、イエスの願いを支え、わたしたちのうちに希望と信仰と愛の火を燃え立たせます。

 こうしてわたしたちは、主イエスが来られたのは律法を廃止するためではなく、発展させ、完成させるためであること、さらには肉による法は規則や禁止事項の羅列ですが、霊による法はいのちであること(ヨハネ6・63、エフェソ2・15参照)をよりよく理解できるようになります。霊による法は、もはや規則ではなく、わたしたちを愛し、求め、ゆるし、いやし、罪という背きによって絶たれた御父との交わりをご自分のからだで回復してくださるキリストご自身の肉体だからです。したがって、十戒の中で用いられる否定形の表現――盗んではならない、侮辱してはならない、殺してはならない――の中の「してはならない」ということばは、愛しなさい、他の人々のために心を開きなさいという肯定的な姿勢、可能性を生み出すあらゆる願いへと変わります。これこそが律法の完成です。イエスはそのためにわたしたちのもとに来られたのです。

 十戒は、キリストにおいてのみ、罪を課すものではなく(ローマ8・1参照)、人間のいのちの真理となります。その真理とは、愛への願い――善、善行への願いはそこから生じます――、喜びへの願い、平和、寛大さ、思いやり、善、忠実さ、従順さ、自制心を求める願いです。否定から肯定に、つまり聖霊の力によって開かれた心がもつ前向きな姿勢になるのです。

 十戒においてキリストを求めることは、心を豊かにすることです。それにより心は愛で満たされ、神のわざに向けて開かれます。キリストに従って生きたいという願いに応えるとき、人々は救いへの扉を開いています。御父は寛大なかたであり、『カトリック教会のカテキズム』に記されているように「わたしたちがご自身を渇望することに渇いておられるからです」(2560)。

 悪い願いは人を汚します(マタイ15・18-20参照)。聖霊はわたしたちの心に、新しいいのちの種である聖なる願いを注ぎます(一ヨハネ3・9)。新しいいのちとは、規則に従うために払う膨大な努力ではなく、神ご自身の霊にほかなりません。神の霊は、わたしたちが抱く愛される喜びと、わたしたちに対する神の愛する喜びが相まって深まる幸福のうちに、わたしたちをご自身の実りへと導きます。わたしたちに対する神の愛する喜びと、わたしたちが抱く愛される喜び。この二つの喜びは交わっているのです。

 わたしたちキリスト者にとって十戒とは、キリストの心を受けるために自分自身を開け放ち、キリストの願いに応じ、キリストの霊を受けるために、キリストを見つめることなのです。

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