「188殉教者ゆかりの教区の集い」「京都大殉教400年記念ミサ」【報告】

188殉教者ゆかりの教区の集い 列聖願い連携深める  日本カトリック列聖推進委員会(委員長=大塚喜直司教)は、1619年の京都大殉教400年にちなみ、10月4日、京都カテドラル河原町教会で「188殉教者ゆかりの教区の集い […]

188殉教者ゆかりの教区の集い

列聖願い連携深める

 日本カトリック列聖推進委員会(委員長=大塚喜直司教)は、1619年の京都大殉教400年にちなみ、10月4日、京都カテドラル河原町教会で「188殉教者ゆかりの教区の集い」を開いた。
 188人の福者の殉教地は、新潟、東京、京都、大阪、広島、福岡、長崎、大分、鹿児島の9教区に及ぶ。今回の集いには、9教区の担当者と、列聖推進委員会の委員など21人が参加。オブザーバーとして京都キリシタン研究会のメンバーも加わった。
 大塚司教はあいさつの中で、列聖のためには188殉教者のとりなしによる奇跡が認められることが必要で、委員会として事例の報告を呼び掛けていることを紹介した。
 続いて同委員会秘書の平林冬樹神父(イエズス会)が「聖人と列聖制度のあらまし」を説明。聖人とは、特に「聖書のメッセージを受け入れ、それを生き切った人」であり、それを教会が宣言することが列聖であると話し、列聖の条件などを説明した。
 その後、日本二十六聖人記念館の前館長でイエズス会管区長のレンゾ・デ・ルカ神父が「日本の聖人・殉教者」について講演。日本にキリスト教がもたらされた時代から、多くの宣教師が日本人の精神性や信仰を高く評価していたことや、日本での宣教の広がり、禁教後も守られた日本人の信仰の確かさなどについて、多数の史料を映写しながら説明した。
 これらを聞いた後、9教区の担当者がそれぞれの教区での活動状況を報告した。
 各教区で殉教者を顕彰する記念祭や行事を行っているほか、パンフレット、冊子の作成など行っている。人手不足を訴える教区もあり、「他の福者の列福で精いっぱいだった」「日常業務に追われ、優先順位が低くなってしまった」などの声もあった。
 53人が殉教した新潟教区の米沢(山形県)では、信者でない市民によって殉教地が守られてきた歴史があり、資料館を建設したいという要望も挙がっていることが紹介された。
 熊本では、殉教者をたたえる歌を作ったことや、神道や仏教などの協力を得ながら顕彰していることが報告された。

集いの翌日に京都の殉教地・
鴨川の川原を巡礼した参加者

 長崎からは、信徒たちが「自分たちにとって大切な人(祖先)」をごく自然に大事にしており、かえって「列聖」を意識することが少ないという報告もあった。
 報告後の分かち合いでは「自分の教区だけで精いっぱいになっていたが、他の教区の活動を聞けて良かった」「皆さんが作っているパンフレットに心を引かれた」「長崎の信者さんたちが殉教者を身近に感じていることに感銘を受けた」「ペトロ岐部の生涯は世界的に見ても際立っている。その素晴らしさを世界に発信できないか」「殉教祭を恒例行事としてこなすのでなく、信仰養成の機会と位置付け、一歩を踏み出していきたい」などの話が出された。(記事・写真提供=カトリック新聞社) 



京都大殉教から400年

福者しのびカテドラルでミサ

「京都大殉教」の
殉教者をしのぶミサ

 江戸時代初期の1619年、52人のキリシタンが処刑された「京都大殉教」から今年で400年。殉教者をしのび記念するミサが10月5日、京都カテドラル河原町教会でささげられた。京都教区の大塚喜直司教が主司式し、約150人が参列した。
 ミサには、前日に同カテドラルで開かれた「188殉教者ゆかりの教区の集い」に参加した関連教区の司祭たちも、発表されたばかりの「殉教者のシンボルマーク」を付けた祭服を着用して参加。京都教区の司祭らと合わせて約20人が共同司式した。京都の殉教者52人は188殉教者に含まれている。
 日本の教会の殉教史で「大殉教」と呼ばれるものは長崎、江戸、京都の三つ。京都の大殉教は、処刑された52人全員が信徒で、そのうち11人が子どもだった。記録によれば、信徒たちは鴨川の川原で火あぶりの刑に処せられた。母親たちは十字架の上で幼い子を抱き、「主イエスよ、この子どもたちの魂を受けてください」と叫んで殉教したという。
 ミサではヨハネ福音書12章から「一粒の麦」の例え話の箇所が朗読された。
 大塚司教は説教で、この例えは、イエスが十字架上で亡くなる前に、その死の意味を弟子たちに示し、「恐れずに自分を差し出す生き方を貫け」と励まされたものだと話した。
 同司教は、現代に迫害という状況はないが、その分、殉教者の「自分を差し出す」生き方、「一粒の麦」の生き方が遠くなっていないかと参加者に問い掛けた。利己的に生きることが普通になり、何かのために自分をささげる生き方を「間違っていると言わんばかりの風潮」があるとも指摘。自分勝手に生き、周囲の価値観を無責任に傍観してしまう世俗的価値観が、教会の中にも忍び込んでいることを憂慮した。
 来月に迫った教皇フランシスコの来日のテーマが「すべてのいのちを守るため」であることにも触れ、現代でも多くの命が傷つき、奪われ、疎外されている中で、神から頂いた尊い命は決してないがしろにされてはならないと強調。「今日、京都の52殉教者たちは私たちに、一粒の麦の生き方を受け入れているか問い掛けています」と話し、参加者を殉教者に倣う生き方へと招いた。
 閉祭には、「恵の風に帆をあげて―ペトロ岐部をたたえて」を全員で合唱した。
 京都教区の信徒、伊藤美奈子さんは、京都キリシタン研究会の一員として前日の集いとミサに参加。2日間を終えた感想として「信者としての私のアイデンティティー(自己認識)は何かを考える機会になりました。日本の殉教者に倣うということは、『神からしか来ない、喜びと平安を生きる』者になることだと学びました」と話した。(記事・写真提供=カトリック新聞社)

PAGE TOP