教皇の日本司牧訪問 帰途の航空機内での記者会見 教皇専用機内、11月26日

 

帰途の航空機内での記者会見
教皇専用機内、11月26日

マテオ・ブルーニ(聖座プレスオフィス・ディレクター)
 皆さん、こんにちは。教皇様、こんにちは。充実した旅でしたね。記者の皆さん、そして教皇様にとっては、結構きつい旅であったかもしれませんが―。すばらしい旅でした。非常に重要な行事もありましたし、話題も多く、スピーチも多かったですね。さて、ここで記者との会見を行います。もし初めに、何かひと言あれば……。

教皇フランシスコ
 皆さんご苦労さまでした。かなり密度の濃い、しかも、一方はタイ、もう一方は日本と、カテゴリーもがらりと変わる旅でしたものね。同一のカテゴリーでは測れない、もろもろのことがありますね。事実は、同じ現実に立つカテゴリーをもって評価されなければなりません。ですが、二つのまったく異なる現実がありました。ですから二倍の働きが必要ですね。二倍働かれた皆さんに感謝します。強行スケジュールでしたが、働きはすばらしかっただろうと思っています。ありがとう。この仕事にあたった皆さんには親しみを感じています。ありがとうございます。

マテオ・ブルーニ
 最初の質問は、「カトリック新聞」の山元神父からどうぞ。

山元眞神父、カトリック新聞
 こんにちは、教皇様。遠く日本までお越しいただきありがとうございます。わたしは、長崎のすぐ隣の、福岡の教区司祭です。お聞きします。長崎と広島を訪問されましたが、何をお感じになりましたか。もう一つお聞きします。西洋の社会と教会は、東洋の社会や教会から何か学ぶことがあるでしょうか。

教皇フランシスコ
 最後の質問から始めますね。非常に感銘を受けたことが一つあります。「lux ex Oriente, ex Occidente luxus(光は東方から、贅沢は西方から)」(訳注:古代ローマの格言Ex oriente lux, ex occidente lex[光は東方より、法は西方より]をもじっている)という格言があります。光は東方からもたらされ、贅沢、消費主義は西方からもたらされます。まさしく東方の知恵というものがあります。それは、知識とは別の知恵のことで、時の知恵、沈思の知恵です。西洋社会、いつだって、あまりに急ぎ過ぎている社会が、しばし観照することを覚え立ち止まることに、物事を詩的に眺めることにさえ、大いに助けとなります。お分かりになりますか。そう考えると、これはわたしの個人的な意見ではありますが、西洋には少し詩情が欠けているように思います。美しい詩はいくつもありますが、東洋はそれをはるかにしのぎます。東洋は、物事を達観した目で見ることができます。「超越」という語は使わないつもりです。というのも、東洋の宗教には、超越という観念がない宗教もあるからです。ですが、超越とはいわずとも、当然、内在性から脱する、達観のイメージには賛同いただけるでしょう。ですので、「詩情」といわせてもらいます。断食や贖罪行為、さらには東洋賢者らの知恵の書を学ぶことで、己の完徳を目指す、無私無欲の境地を指しています。わたしたち西洋人は、しばし立ち止まり、よい働きをなすよう知恵に時を与えるべきなのだと思います。せわしない文化には、「じっとたたずむ」文化が必要なのです。立ち止まってください。違いをはっきりさせるのにこうした説明がふさわしかったのかは分かりませんが、ともかくこれがわたしたちに必要なものだと思います。
 一つ目の質問についてです。長崎と広島ですね。どちらも被爆地ですので、双方は同じく考えられます。ですが一つ違いもあります。長崎にあったのは原爆だけでなく、キリスト信者もいたということです。長崎にはキリスト者のルーツが、古くからのキリスト教信仰があります。キリシタン迫害は日本全土で行われたものの、長崎ではとても激しいものでした。教皇庁大使館の参事官がわたしに、当時の「指名手配」が書かれた木製の高札のレプリカをくださいました。「キリシタンを訴人せよ。キリシタンを見つけ報告した者には報奨金を、司祭を見つけ報告した者には報奨金を与える」。このようなものが、資料館に納められることになるのですね。胸を打たれます。これが、迫害の時代だったのです。これが、原子爆弾を「相対化」する―よい意味で捉えてほしいのですが―キリシタンの事実です。長崎には二つの出来事があるのです。長崎を訪れて、単に、「なるほど、長崎はキリシタンの地ですね。原爆ねえ……」と考えるだけでは、そこ止まりです(歴史の一部を無視しています)。一方、広島に行くのは、原爆が最大の理由です。長崎ほどはキリスト教都市ではないからです。だからわたしは、両方を訪れたかったのです。事実、どちらにも原爆の惨禍はあったのです。
 広島は、残酷さについて人類に教える、真のカテケージスでした。残酷さ―。わたしは広島の資料館の見学がかないませんでした。(あの集いに)ぎりぎりの時間で、ひどい天候でしたから。だれもが、悲惨だ、実に悲惨だと話します。どうしてこの惨劇を起こしてしまったのかと、国家元首や一般市民も書き残しています。わたしにとってそれは、長崎でのもの以上に心に突き刺さる体験となりました。長崎には、殉教者の記念館がありました。ちょっとだけ中を見学しました。ともかく、広島の資料館は見学がかなわなかったものの、非常に心に残りました。そしてその地で、わたしは、核兵器の使用は倫理に反すると強く訴えてきました。このことは、『カトリック教会のカテキズム』に加えられるべきです。しかも、使用のみならず保有についてもそうなのです。保有(していたならば)、事故もしくは一人の支配者の狂気、だれかの狂気によって、人類壊滅の可能性があるからです。アインシュタインのあのことばを考えてみてください。「第四次世界大戦は、こん棒と石で戦うだろう」。

マテオ・ブルーニ
 次の質問は、朝日新聞勤務の河原田さんからお願いします。

河原田慎一、朝日新聞
 こんにちは、教皇様。原発について質問したいと思います。いみじくもご指摘なさったように、永続的平和は軍備撤廃なくしては達成できません。日本は、米国の核の傘を享受しており、同時に、核エネルギー生産国でもあります。核エネルギーは、痛ましくも福島での事故によって証明されたとおり、環境と人類に対する脅威を含むものです。日本はいかにして、世界平和に貢献できうるでしょうか。原子力発電所は停止すべきでしょうか。ありがとうございます。

教皇フランシスコ
 原子力産業の保有についてから始めましょうか。事故はいつだって起きうるものです。皆さんが経験されたように、大きな被害を引き起こした三重災害ということだってありえます。核エネルギーは極限のものです。兵器に利用してはなりません。利用すれば破滅だからです。まったくもって、核エネルギーの利用は限定的なものです。完全な安全性を確保できていないからです。できていないのです。こうおっしゃるかもしれません。「ええ、ですが他の発電手段であっても、安全性が欠けていれば災害は起こりえます」。ですがそれは、壊滅には至らない災害です。原子力発電所の原子力災害は、すさまじい大惨事です。にもかかわらず、安全性は確保されていないのです。これは個人的な見解ですが、使用上の完全な安全性が確保されるまで、核エネルギーは用いるべきではないでしょう。もっともわたしはこの分野の専門家ではありませんから、一つのアイデアを申し上げたにすぎません。核エネルギーは被造物の保護とは相いれず、それを破壊するので、使用をやめるべきという人もおられます。なお議論の最中です。わたしは、安全性について論じたいと思います。大惨事を食い止める安全性が確保できていないのです。世界で十年に一度の災害であっても、被造界に(大きな影響を)及ぼすのです。核エネルギーによる、被造界に対する、そして人間に対する災害です。
 ウクライナの原発事故は、長年にわたって影響を及ぼし続けています。わたしはそれを、戦争や兵器とは分けて考えています。ともかく、今わたしがいいたいのは、大惨事と自然環境の双方について、安全性を追求しなければならないということです。環境についていえば、限界を超えてしまっている、極限に達している、そう思っています。農業では、たとえば農薬の問題があります。養鶏を見ても、医者は母親たちにブロイラーを食べるのは控えるよう指導しています。そうした鶏はホルモン剤投与によって太らされ、子どもたちの健康に悪いのです。環境によくないものを使用することで引き起こされる特殊な病気が、今日非常に多く存在しています。難病です。送電線によるものやさまざまな理由があります。環境への配慮は、今日なさねばならないことで、チャンスは二度とありません。そして核エネルギーに話を戻しますが、それについても、構造、安全性、環境保護の観点が不可欠です。

マテオ・ブルーニ
 三つ目の質問は、日本の共同通信社のエリザべッタ・ズーニカさん、どうぞ。

エリザべッタ・ズーニカ、共同通信社
 袴田巌氏は日本の死刑囚で、再審を訴えています。彼は東京ドームのミサに出席していましたが、あなたと話はできませんでした。短時間の面会が予定されていたのかどうか、お答えいただけないでしょうか。日本では死刑について広く議論されているからです。死刑に関するカテキズムの変更のほんのひと月前に、13名もの死刑が執行されました。今回の訪日中の発言には、この問題についての言及がありませんでした。どうしてこのような機会に、発言しようとはなさらなかったのですか。それとも、安倍首相とは何か話をなさったのでしょうか。

教皇フランシスコ
 ご指摘の死刑のことについては、後で知りました。そのかたを存じ上げていませんでした。知りませんでした。首相とは、広く多くの問題について協議をしました。死刑にしろ終身刑にしろ、終えることのできない刑はやめるべきです。しかしそれについても、一般的な問題の一つとして話しました。これは、他の国にも存在する問題です。過剰に詰め込まれた刑務所や、判決前に拘置所に勾留されている人、推定無罪が無視されて……。そこで待って、待って、待ち続けていなければならないことについてです。15日前に刑法に関する国際会議に参加し、刑務所、予防拘禁、死刑について話をしました。死刑は倫理に反し、行ってはならないものだとはっきりと述べました。このことは、良心はさらに成長していくということと合わせて考えていくべきです。たとえば、政治的問題から廃止にはせず、凍結している国があります。表明することなく廃止を表明する、たとえば終身刑などです。ですが問題は、刑罰はつねに社会復帰のためのものでなければならない、ということなのです。「窓」のない、先の見えない刑罰は、人間性にかなうものではありません。終身刑だってそうです。終身刑に服している人がいかに社会復帰―(刑務所の)内側であろうと外であろうと―できるかを考えなければなりません。ともかく必ず将来が、社会復帰が必要なのです。「でも頭のおかしな犯人もいます。病気の影響や、狂気のため、矯正できない遺伝的な理由などで……」というかもしれません。それでも、せめて本人が、人間らしさを感じられるような方法を探さなければなりません。今日、世界の多くの地で、刑務所が囚人であふれ返っています。それは生身の人間が積まれている状態で、よくなるどころか、大抵は悪くなってしまうのです。わたしたちは死刑制度と闘わなければなりません。少しずつであってもです。「廃止します」、そう述べる国や地域が出てきていることは喜びです。昨年、ある州知事と話をしたのですが、そのかたは退任前に、おそらく決定的といえる死刑の凍結をなさったそうです。それは前進、人間の良心の前進です。他方で、ヒューマニズムの枠組みにそれを組み入れることができずにいる国もあるのです。

マテオ・ブルーニ
 次の質問は、フィガロ紙のジャン-マリー・ギノワさんどうぞ。

ジャン-マリー・ギノワ、Le Figaro
 こんにちは、教皇様。あなたは、真の平和は非武装の平和にしかないとおっしゃいました。では、他国に攻撃された国の、自己防衛はどうなるのでしょうか。この場合には、「正当な戦争」というのではないでしょうか。それともう一つ。以前、非暴力についての回勅のことを話しておられました。非暴力についての回勅は、まだ構想中でしょうか。以上の二つです。ありがとうございます、教皇様。

教皇フランシスコ
 ええ、計画はあるのですが、次の教皇にお願いすることになりそうですね。ほとんど時間が取れなくて……。引き出しに入っている計画がいくつかあるのですが……たとえば平和についてのものもありますし、今練っているところで、時期が来れば着手します。まあ、それについては相当話していますがね。たとえば学校の子どもたちのいじめの問題は、暴力の問題です。まさに日本の若者に、それを、そのテーマで話をしました。わたしたちが解決のために手を貸そうとしている、教育に関する数ある問題の一つです。それは暴力の問題であり、暴力の問題には向かっていかなければなりません。ともかく、非暴力についての回勅は完成には遠いので、もっと祈って、方法を探らなければなりません。
 平和と武器についてですが、古代ローマの格言に「Si vis pacem, para bellum(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ)」とあります。わたしたちは成熟していなかったのです。国際機関がうまくいかず、国連がうまくいかず……。彼らは非常に多くのことをなし、非情に多くの調停を行っており、それは立派なことです。たとえばノルウェーのような国はつねに調停を進んで引き受け、戦争回避のための出口を見いだそうとしています。そのように行っていくのがいいと思います。ですが、まだわずかな動きですから、そうした動きが増えていくべきです。気を悪くなさらず、安全保障理事会について考えてみてください。武器の問題があります。軍事衝突を避けるべくその問題を解決するには、全会一致が必要です。すべての国が賛成票を投じなければならず、拒否権をもつ国が反対票を投じれば、すべて止まってしまうのです。聞くところによると―わたしはいい悪いの判断はできませんので、うかがった一つの意見ですが―国連は、安全保障理事会で一部の国の拒否権を取り下げることで前進すべきだという意見もあります。わたしは専門家ではありませんが、それもありうると思いました。どのように申し上げたらいいか分かりませんが、どこも等しく権利をもてたらよいのではないかと思うのです。
 世界の均衡には、現時点では判断できない議論があります。ともかく、武器の製造をやめ、戦争をやめるために、仲介者の助けを借りてでも交渉の席に着くこと、それは必ずなさなければなりません。つねにです。結果は伴います。わずかだ、という人もいます。ですが、そのわずかから始めましょう。そして今度は、交渉の結果をさらに推し進め、問題の解決へと向かうのです。たとえば、ウクライナとロシアの事例があります。武器についての交渉なしに、捕虜の交換の交渉が成立したのです。可能なのです。必ず、平和に向けた一歩があります。ドンバス(東ウクライナ)では、政治体制のプランニングについての考え方の対立があります。異なる考え方がありますが、議論が進められており、それは平和に向かう一歩なのです。
 このところ、すばらしいことと醜いこととが起きています。よくないことは―これをいうべきでしょう―「武器商人」の偽善です。キリスト教国―少なくともキリスト教文化圏―、ヨーロッパ諸国―いわゆる「ヨーロッパ崇拝国」―は、平和について語りながら、武器に頼って生きています。それは偽善と呼ばれます。福音の用語です。マタイの23章でイエスは何度もこのことばを繰り返しています。こうした偽善はやめなければなりません。国は、勇気をもってこういってはどうでしょうか。「もう平和について語ることはできません。この国の経済は、武器の製造で潤っているのですから」と。その国を侮辱したり名誉を傷つけたりせず、むしろ兄弟のように、人類の友愛をもってこういってください。「やめよう、君たち、やめるんだ。よくないことなんだよ」。どこかの港で、ちょっと記憶が定かではないのですが、ある港に、よその国から武器を満載した船が寄港したそうです。イエメン行きのもっと大型の船に引き渡すためだったそうです。イエメンがどうなっているかはご存じのとおりです。すると港湾労働者らは「ノー」といいました。すばらしいかたがたですね。そうしてその船は母国に戻っていきました。たまたまそうだったのかもしれませんが、何をなすべきかを教えられます。今日の平和はとても弱く、非常に脆弱です。それでもわたしたちはくじけてはならないのです。武器に頼るならば、ますます弱くなっていきます。

ジャン-マリー・ギノワ
 では、武力による正当防衛とはなんですか。

教皇フランシスコ
 正当防衛の仮説はつねにあります。倫理神学においても、熟慮される仮説です。しかし、最終手段としてです。最終手段です、武器は。正当防衛は、外交によって、調停をもってなすべきです。最後の手段として、武器による正当防衛があるのです。いいですか。強調したいのは、それは最後の最後の手段だということです。わたしたちは、好ましくも倫理的に前進しています。こうしたことすべてに疑いの目を向けることによってです。すばらしいことです。人類は、悪に対してばかりでなく、善に対しても進歩しているのですから。ありがとうございます。

(原文イタリア語。以下4人の記者の質問が続くが、日本司牧訪問にかかわる内容ではないので割愛した)

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