教皇フランシスコ、2020年3月15日「お告げの祈り」でのことばと、新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての励ましのことば

 

教皇フランシスコ、2020年3月15日「お告げの祈り」でのことばと、
新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての励ましのことば

兄弟姉妹の皆さん、

 サンピエトロ広場は数日前から閉鎖されています。ですから、コミュニケーション・メディアを通して直接、皆さんに語りかけたいと思います。わたしたちが多かれ少なかれ隔離されて暮らさざるをえない、このパンデミックの状況の中では、教会のすべての信者を結びつける交わりの大切さを再確認し、その価値を深めることが求められます。キリストのうちに結ばれていれば、わたしたちは決して独りではありません。それどころか、キリストを頭とする一つのからだを形作っています。それは、祈りによって、さらには秘跡を受けられない場合にとりわけ推奨される霊的聖体拝領によって強められる結びつきです。このことを皆さんに、特に一人暮らしをしているかたに伝えたいと思います。

 わたしはすべての病者と、その看護をする人々に寄り添います。そして、家を出られない人と、住むところもない貧しい人を助ける、すべての医療従事者やボランティアの方々にも寄り添います。

 この困難なときに、人々を助けるために皆さん一人ひとりが行っている働きに心から感謝します。主が皆さんを祝福してくださいますように。

(「お告げの祈り」後のことばからの抜粋)

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 ミラノ総合病院でエンリコ・デルピーニ大司教が病者と医師、看護師、ボランティアの方々のためにささげているミサが今頃、終わりを迎えていることでしょう。大司教は教区の人々に寄り添い、祈りのうちに神の近くにおられます。大司教が先週、一人で大聖堂の屋上で聖母マリアに祈りをささげている様子を伝える写真を見て、わたしは心を打たれました。また、多くの司祭と、彼らの創意工夫にも感謝します。彼らの創意工夫については、ロンバルディアから沢山のニュースが届いています。本当に、ロンバルディアは大変な状況に見舞われています。司祭たちは、人々に寄り添うためにありとあらゆる方法を考え、人々が見捨てられたと感じないよう努めています。使徒的な情熱にあふれる司祭たちです。パンデミック期には、「アッボンディオ神父」(『いいなずけ』〔アレッサンドロ・マンゾーニ作〕の登場人物)のようになってはいけないことを、彼らはよく知っているのです。司祭の皆様、本当にありがとうございます。

 四旬節第三主日の今日の福音は、イエスがサマリアの女と会ったときのことを伝えています(ヨハネ4・5-42)。イエスは弟子たちとともに旅をし、サマリア地方のある井戸の近くで休みます。サマリア人は、ユダヤ人から異端者と見なされ、下層階級の市民として軽蔑されていました。イエスは疲れ、のどが渇いています。ある女性が水をくむためにやって来ます。そしてイエスは、「水を飲ませてください」(7節)と彼女に言います。どんな障壁があっても、イエスは対話を進めます。その対話を通してイエスは、生ける水の神秘、すなわち神のたまものである聖霊の神秘を明らかにします。驚いている彼女に、イエスは言います。「もしあなたが、神のたまものを知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(10節)。

 この対話の中心は水です。水は生きるのに欠かせないもの、身体的な渇きを潤し、いのちを支えるものであると同時に、永遠のいのちを与えてくださる神の恵みの象徴でもあります。詩編や預言者の書に記されているように、神から、生ける水の源から、そして神のおきてから離れることは、もっとも深刻な渇きをもたらします。それは、荒れ野でイスラエルの民が体験したことです。自由を求めて長い間旅をする間に、彼らはひどい渇きを覚え、モーセと神に向けて叫びます。水がどこにもなかったのです。そこで神はモーセに、岩から水を出すよう命じます。その水は、ご自分の民に寄り添い、いのちを与えてくださる神の摂理のしるしです(出エジプト17・1-7参照)。

 使徒パウロも、この岩をキリストの象徴と捉えています。「この岩こそキリストだったのです」(一コリント10・4)。それは、旅を続ける神の民のただ中に現れる神の神秘的な姿です。預言者たちによれば、心を清め、いのちを与える生ける水である聖霊が流れ出る神殿は、イエスにほかなりません。救いに飢え渇く人は、イエスから無償で水をくむことができます。そして聖霊はその人の十全で永遠のいのちの源となります。サマリアの女とイエスが交わした生ける水の約束は、イエスの受難によって実現します。貫かれたイエスのわき腹から、「血と水」(ヨハネ19・34)が流れ出るのです。いけにえとしてささげられ復活した小羊であるキリストは、罪を償い、新しいいのちをもたらす聖霊が湧き出る泉なのです。

 このたまものは、あかしの源でもあります。生きているイエスとじかに会った人はだれもが、サマリアの女と同じように、イエスについてだれかに話さなければならないと感じるようになります。それにより、サマリアの町の人々と同じように、イエスこそが「本当に世の救い主である」(ヨハネ4・42)と宣言するようになるのです。洗礼を通して新しいいのちに生まれたわたしたちも、自分たちの中にあるいのちと希望をあかしするよう求められています。わたしたちの願いと渇きがキリストによって完全に満たされるとき、わたしたちは、救いがこの世の「物事」の中にではなく、わたしたちを愛してこられ、これからもつねに愛してくださるイエスのうちにあることをはっきりと示すようになります。この世の物事は渇きをもたらすだけです。イエスこそが、わたしたちに生ける水を与えてくださる救い主なのです。

 生ける水の源であり、いのちと愛へのわたしたちの渇きを満たしてくださる唯一のかた、キリストへの願いをさらに深めることができるよう、至聖なるマリアが助けてくださいますように。

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