教皇フランシスコ、2020年3月29日「お告げの祈り」でのことばと、新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての呼びかけ

 

教皇フランシスコ、2020年3月29日「お告げの祈り」でのことばと、
新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての呼びかけ

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 数日前、国連事務総長が新型コロナウイルス(COVID-19)の際限のない感染拡大による現在の危機的状態を受けて、「世界のあらゆる地域での即時停戦」を呼びかけました。これは、全面的な停戦を求めるアピールです。

 わたしは、このアピールに応える人に心を合わせます。そして、あらゆる武力紛争をやめ、人道支援ルートの確保を円滑化し、外交努力を強め、もっとも弱い立場にある人々の状況に目を向けるよう皆さんに呼びかけます。

 このパンデミックに共に立ち向かうことにより、皆さんが、一つの人間家族の一員として兄弟姉妹のきずなを強めるよう自分たちが求められていることに気づきますように。特に、紛争当事国や他の関係組織の指導者の間で、対立を克服するための新たな取り組みが始まりますように。争いは戦争によって解決されるのではありません。敵意と対立は、対話と建設的な平和への歩みを通して克服されるべきです。

 今このときに、わたしは介護施設や一時収容施設などで集団生活を余儀なくされ、感染リスクにさらされているすべての人に、とりわけ思いを寄せます。拘留されている人々について特に申し上げたいと思います。先日読んだ、国連人権理事会の公式発表によると、過密状態にある収容所では悲劇が起こりかねません。この重大な問題に鋭敏に対処し、悲劇を未然に防ぐためにあらゆる措置をとるよう各国政府に求めます。

(「お告げの祈り」後のことばからの抜粋)

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 四旬節第五主日の今日の福音では、ラザロの復活が語られます(ヨハネ11・1-45参照)。ラザロは、イエスの親しい友人であるマルタとマリアの兄弟です。イエスがベタニアに着いたとき、ラザロはすでに4日前に死んでいました。マルタは走って主を迎えに行き、主に言います。「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(23節)。イエスは彼女に答えます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)。「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる」(25節)。イエスは、死者にもいのちを与えることのできるいのちの主として、ご自分を示します。そこにマリアと他の人々が泣きながらやって来ます。福音書には、イエスは「憤りを覚え、心を騒がせて……涙を流された」(33、35節)と記されています。このように心を揺り動かされ、イエスは墓に向かいます。いつも願いを聞き入れてくださる神にイエスが感謝し、墓の石が取りのけられます。そしてイエスが叫びます。「ラザロ、出てきなさい」(43節)。するとラザロが、「手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」(44節)。

 いのちである神は、いのちを与えることも、死という悲劇を引き受けることもおできになることを、わたしたちはこの箇所で確認することができます。イエスは友であるラザロの死を回避することもできましたが、身近な人の死に対するわたしたちの痛みをご自身も感じたいと望まれました。そして何よりも、神が死を支配しておられることを示したいと思われたのです。この福音箇所には、人間の信仰と、神の愛の全能さが互いを探し求め、最後にはめぐり合う様子が記されています。それは、マルタとマリアの叫びに、さらにはこの姉妹と一緒に叫ぶわたしたち全員の叫びに表れています。「主よ、もしここにいてくださいましたなら」。それに対する神の答えは、ことばではありません。死という問題への神の答えは、むしろイエスご自身です。「わたしは復活であり、いのちである」。信仰を抱いてください。死が勝利したように見えるときにも、悲しみのただ中で信仰をもち続けてください。あなたの心から石を取りのけてください。みことばに、死のあるところからいのちを取り戻していただいてください。

 今日もイエスは「石を取りのけなさい」とわたしたちに繰り返し呼びかけておられます。神は墓場に向けてではなく、美しく、素晴らしく、喜ばしいものであるいのちに向けて、わたしたちをお造りになりました。知恵の書に記されているように、「悪魔のねたみによって死がこの世に入り」(知恵2・24)ます。その束縛からわたしたちを解き放つために、イエス・キリストは来られました。

 ですから、死の気配のあるものはすべて取りのけなくてはなりません。たとえば、偽善的な信仰は死です。人を傷つける批判は死です。悪口や中傷は死です。貧しい人を社会の片隅に追いやるのは死です。主はこれらの石をわたしたちの心から取りのけるよう求めておられます。そうすれば、いのちはわたしたちの周りで再び花開くでしょう。キリストは生きておられます。キリストを受け入れ、キリストに従う人は、いのちと出会います。キリストがおられなければ、キリストから離れたら、いのちがそこにないだけでなく、再び死に陥ってしまいます。

 ラザロの復活は、キリストの過越の神秘と完全に一致する洗礼の秘跡を通して、信者が生まれ変わることの象徴でもあります。キリスト者は、聖霊の働きと力によって新しい人間として人生を歩む人、いのちのために造られ、いのちに向かって歩む人なのです。

 わたしたちの苦しみをその身に受けてくださった御子イエスのように、わたしたちもあわれみ深くなれるよう、おとめマリアが助けてくださいますように。わたしたち一人ひとりが、困難に直面している人に寄り添うことができますように。その人にとってわたしたちが、死から解放し、いのちに勝利を与えてくださる神の愛と優しさのしるしとなりますように。

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