第54回「世界広報の日」教皇メッセージ(2020.5.17)

第54回「世界広報の日」教皇メッセージ 「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト10・2) 人生は物語となる  今年のメッセージは、物語をテーマにしたいと思います。道に迷ったままにならないためには、よい物語から真理を吸収 […]

第54回「世界広報の日」教皇メッセージ
「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト10・2)
人生は物語となる

 今年のメッセージは、物語をテーマにしたいと思います。道に迷ったままにならないためには、よい物語から真理を吸収する必要があると、わたしは信じているからです。よい物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です。さまざまな声や知らせに取り囲まれる喧騒の中でわたしたちに必要なのは、自分自身のことと、周りにあるすべての美しいもののこととを語る、人間らしい物語です。世界とさまざまな出来事にいつくしみのまなざしを向ける物語、わたしたちは生きている織物の一部であることを伝えてくれる物語、わたしたちを互いに結びつけている糸の縒り合わせを明かす物語です。

1. 物語を織る
 人間は物語る存在です。わたしたちは子どものころから、食べ物を欲するのと同じように、物語を欲します。童話、小説、映画、歌、報道など、いずれの形であれ、物語はわたしたちの人生に、そうとは気づかなくても、影響を与えています。なじみのある登場人物や話に基づいて、物事の善悪を判断することもあります。物語はわたしたちに刻まれ、わたしたちの信条と姿勢を形成し、自分は何者であるかを理解して伝えられるよう助けます。

 人間は、自分のもろさを覆うために衣を必要とする唯一の生き物(創世記3・21参照)であるばかりか、自分のいのちを守るために物語を「まとう」ことをも必要とする唯一の生き物でもあります。わたしたちは衣だけでなく、物語も織り上げます。人間の「織りなす(テクセレ〔ラテン語〕)力はまさに、織物(テキスタイル)にも、文章(テキスト)にも及ぶのです。どの時代の物語にも、共通の「枠組み〔機(はた)〕」、すなわち「勇者」が登場するという型があります。日常生活においても見られるそうした勇者が、夢を追い求める中で困難に直面し、勇気を与える力、愛の力に動かされ、悪と戦うという展開になっているのです。物語に熱中することで、わたしたちは人生という挑戦に臨むための勇者の士気を得ることができます。

 人間は物語る存在です。人間は、日常という筋書き〔横糸〕の中で己を知って豊かにし、成長する生き物だからです。しかし原初から、わたしたちの物語は危険と隣り合わせにありました。歴史〔物語〕には、悪が蛇のようにはい回っているのです。

2. すべての物語がよいとは限らない
 「それを食べると、神のようになる」(創世記3・5参照)。蛇の誘惑は、ほどけにくい結び目を、歴史の筋書きに生じさせます。「あれを手に入れると、このようになれる、あのようなこともできるようになる……」。これは、いわゆるストーリーテリングを道具として用いる人が、今もささやくことばです。幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう。わたしたちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。コミュニケーションという機(はた)は、社会的なつながりや文化の構造を結びつける建設的な物語ではなく、社会を織りなす切れやすい糸をほつれさせ、断ち切ってしまう破壊的で挑発的な物語ばかりを生み出しています。裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです。

 道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。いのちをはぐくむものなので、幾世紀を経ても普遍なのです。

 偽造がますます巧妙化し、予想をはるかに超えた域(ディープフェイク)にまで達する現代において、わたしたちには美しく、真実で、よい物語を受け入れ、生み出す知恵が必要です。偽りで悪意のある物語をはねつける勇気が必要です。今日の多くの分裂にあって、それをつなぎ止める糸を見失わないよう助けてくれる物語を再び見いだすためには、忍耐力と識別が必要です。それは、日常の気づかれることのない英雄行為をも含め、わたしたちの真の姿を照らし出す物語です。

3. 種々の物語から成る物語
 聖書は、種々の物語から成る物語です。なんと多くの出来事、民族、人々が示されていることでしょう。そこには冒頭から、創造主であり語り手でもある神について記されています。神がことばを発せられると、それは実現するのです(創世記1章参照)。神は、ことばを発することでさまざまなものにいのちをお与えになり、その頂点として、自由意志をもったご自分の話相手として、またご自分とともに歴史を生み出す者として、男と女をお造りになります。詩編では、被造物が神に呼びかけています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは……驚くべきものに造り上げられている。……秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない」(139・13―15)。わたしたちは完成されて生まれたのではありません。それどころか、つねに「編まれ」、「織られ」なければなりません。いのちは、「驚くべきもの」であるわたしたち自身を織りなし続けるよう促す招きとして、わたしたちに与えられているのです。

 この意味で聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。その中心にはイエスがおられます。イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません。それらのエピソードには、起きたことの意味を伝える力があるのです。

 今年のメッセージのタイトルは、出エジプト記から取られています。出エジプト記は、神がご自分の民の歴史に介入されることを語る本質的な聖書物語です。奴隷となったイスラエルの子らが神に向かって叫んだとき、神はその声を聞き、思い起こされます。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、み心に留められた」(出エジプト2・24-25)。しるしと奇跡を通してもたらされる抑圧からの解放は、神の記憶に由来します。そのとき、主はこれらすべてのしるしの意味をモーセに知らせます。「どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」(同10・2)。出エジプトの体験が教えているのは、神についての知は何よりも、神がいかに現存されているかを次の世代に語り継ぐことによって伝えられるということです。いのちの神は、いのちについて語ることによって伝えられるのです。

 イエスご自身も神について、抽象的な話ではなく、日常生活にまつわるたとえ話や短い物語を用いて語りました。そこでは人生は物語となり、そして、聴衆にとっては、その物語が自分の人生となるのです。その物語はそれを聞く者の人生に入り込み、その人生を変えるのです。

 もちろん福音書も物語です。福音書は、わたしたちにイエスのことを伝えるだけでなく、「行為遂行的」1)でもあり、わたしたちをイエスに一致させます。同じ生き方をするために、同じ信仰に結ばれるよう福音書は読者に求めます。ヨハネによる福音書は、至聖なる語り手──言(ことば)、神であることば──が、ご自身について語られたことを伝えています。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を語られたのである」(ヨハネ1・18参照)。わたしが「語られた」という表現にしたのは、このことばの原語exeghésato(示された)は、「啓示された」とも「語られた」とも訳せるからです。神は自ら、わたしたち人間の中にご自分を織り込むことにより、わたしたちの物語を織る新しい方法を示してくださいます。

4. 新たにされる物語
 キリストの物語は過去の遺産ではありません。それは、今もたえず進行中の、わたしたちの物語です。神は受肉して人となり、歴史となるほどに、人間、わたしたち肉なる者、わたしたちの歴史を深く気遣っておられることを、その物語は示しています。また、人間の物語には、取るに足らない無意味な話など一つもないことも伝えています。神が物語になられたのですから、人間の物語はそれぞれが、ある意味で神聖なのです。御父は、一人ひとりの物語の中に、地に下られた御子の物語を再び見ておられます。どんな人の物語にも、否定しえない尊厳があります。ですから人間は、イエスが引き上げてくださった、目もくらむようなすばらしい最高傑作の物語にふさわしいのです。

 聖パウロは次のように記しています。「あなたがたは、……墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(二コリント3・3)。神の愛である聖霊が、わたしたちの中に書きつけておられます。そして、書き記しながら、善をわたしたちの中に留め置き、そのことを思い起こさせてくださいます。実際、「思い起こさせる(ri-cordare)」とは、心に記す、心に「書きとどめる」ことを意味します。どんな物語も、たとえだれからも忘れ去られたものや、滅裂な文でつづられたように見えるものであっても、聖霊の働きによって導かれ、傑作となって息を吹き返し、福音書に添えられる物語となることができます。アウグスティヌスの『告白』然り、イグナチオの『ある巡礼者の物語』然り、幼いイエスのテレジアの『ある霊魂の物語』然り。『いいなずけ』、『カラマーゾフの兄弟』然りです。神の自由と人間の自由の出会いを見事に描いた数えきれないほど多くの他の物語も同様です。わたしたちはだれもが、人生を変えてくださる愛なるかたをあかしした、福音の香りのする、さまざまな物語に覚えがあります。そうした物語は、いつの時代も、あらゆる言語で、すべての手段によって、共有され、語られ、生きられなければなりません。

5. わたしたちを新たにする物語
 わたしたちの物語は、どの偉大な物語の中にも見られます。聖書、聖人伝や、人間の魂を洞察してそのすばらしさを照らし出すことのできた文学作品を読むとき、聖霊は、自由にわたしたちの心に書き込みをし、神の目に映るわたしたちの姿の記憶をわたしたちの中で新たにしてくださいます。わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。わたしたちはもはや、後悔や悲しみにつながれ、心を閉じ込めてしまう暗い記憶に縛られてはいません。それどころか、他者に対して自らを開くことで、語り手である神がまさに見ておられるものに向けて、自分自身を開いているのです。神に自分の物語を語ることは、決して無駄ではありません。たとえ出来事を記した年譜は変わらなくても、意味と見方は変わります。主に自分のことを語るとは、主がわたしたちと他者に向けておられるあわれみ深い愛の視界の中に入ることです。わたしたちは主に、自分が生きている物語を語り、他者のことを伝え、状況を打ち明けることができます。主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。皆さん、わたしたちはどんなに、そのことを必要としているでしょう。

 そうしてわたしたちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一のかた──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、だれも端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです。悪について語るときでさえ、あがないのための場を残すすべを学ぶことができます。悪のただ中の善のダイナミズムに気づき、善に働きの場を与えることもできるのです。

 ですから、ストーリーテリングの論理に従うことでも、自分を宣伝することでもなく、神の目に映る自分の姿を記憶にとどめること、聖霊が心に記したことをあかしすること、そして神の物語の中には息をのむほどの驚きがあることを、あらゆる人に明かすことが肝心なのです。わたしたちにそれができるよう、ご自分の胎で神の人性を織りなしたかたに、そして福音で語られているように、ご自分に起きたすべての出来事を一つに織り上げたかたに、わたしたち自身をゆだねましょう。おとめマリアはまさに、すべてのことを心に納めて、思い巡らしておられました(ルカ2・19参照)。愛という柔和な力によって人生の結び目を解くすべを心得ておられるマリアに、助けを願い求めましょう。

 一人の女性であり母であるマリアよ。あなたはその胎内で神のことばを織り、神の驚くべきわざをご自分の人生をもって語りました。わたしたちの物語に耳を傾け、心に納め、だれも聞きたがらない物語をもご自身の物語としてください。物語を導くよい筋道〔糸〕に気づくすべを教えてください。わたしたちの人生をもつれさせ、わたしたちの記憶を曖昧にさせる、幾重もの結び目に目を向けてください。あなたの繊細な手先は、どんな結び目も解くことができます。神の霊に満ちたかた、信頼の母であるマリアよ。わたしたちをも導いてください。平和の物語、未来の物語をつむげるよう、助けてください。そして、その物語をともにたどる道を指し示してください。

ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2020年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの記念日
フランシスコ

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