教皇訪日一周年記念ミサ 説教 菊地 功 大司教

教皇訪日一周年記念ミサ カトリック麹町聖イグナチオ教会 2020年12月9日  「興奮のるつぼと化す」という言葉を耳にしたことはありますが、実際に体験することは滅多にありません。一年前、わたしたちはまさしく興奮のるつぼの […]

教皇訪日一周年記念ミサ
カトリック麹町聖イグナチオ教会
2020年12月9日

 「興奮のるつぼと化す」という言葉を耳にしたことはありますが、実際に体験することは滅多にありません。一年前、わたしたちはまさしく興奮のるつぼのただ中におりました。
 東京ドームに教皇フランシスコを迎え、グラウンドへ続く扉が開いてパパモービルが姿を見せた瞬間、歓声と拍手が、もうそれだけで塊となったかのように、教皇様に向けて押し寄せました。
 喜びにあふれて教皇様を迎える多くの人の笑顔を目にしたとき、福音の喜びが日本の教会で新しく何かを芽生えさせるに違いないと確信しました。ですから訪日後しばらくは、その興奮をどのように生かしていくのか、さまざまに思いを巡らしておりました。
 ところが、その後は、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルス感染症に襲われ、今に至るまで続いているいのちの危機が始まりました。教皇訪日をどのように生かし発展させるのかという視点は、あっという間に飛び散ってしまいました。
 人類の歴史に必ずや残るであろうコロナ禍は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みます。その出口が見えないまま、わたしたちは闇の中を光を求めて彷徨い続けています。徐々に感染症の全貌が明らかになってきたとはいえ、確実に安心できるまではまだ時間が必要なようですし、特に高齢の方や基礎疾患のある方を中心に、いのちの危機は継続しています。
 教会もその荒波の中で、対応を急ぎました。世界各地で、日曜日のミサを中止にしたり、教会活動を一時取りやめにしたりといった決断が相次ぎ、日本においても、四旬節のはじめから半年以上、主日ミサへの参加自粛をお願いしたり、教会のさまざまな活動をお休みにしたりと、今でもデリケートな対応に追われています。なんといっても、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードですし、ましてや一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。
 「いのちを守るための行動を」と言う呼びかけは、いまや宗教者の専売特許ではなく、行政のリーダーたちの口からも普通に発せられています。
 教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功の一つの指標だったのです。わたしたちは、日曜日に教会に集まることで、教会共同体となっていたと思い込んでいたのです。
 それが物理的に集まることが難しくなった今、わたしたちは教会共同体というのはいったい何のことだろうかと自問させられています。集まらなくても繋がっている共同体というのは、いったいどういう存在だろうかと考えさせられています。わたしたちは何のためにこの社会に存在しているのかを、あらためて見つめ直させられています。
 そのような状態にあるいまだからこそ、わたしたちは、昨年教皇様が日本の地で語られてさまざまな言葉のなかに、教会のあるべき姿、そして私たち信仰者の生きる姿の道しるべを見いだしたいと思います。
 教皇様の語られた言葉は、まさしく「すべてのいのちを守るため」という訪日のテーマに基づいた内容であり、信仰における信念を持って語られた言葉であり、ご自身の行動に裏付けられた言葉であったがために、力を持った言葉として多くの人の心に語りかけるものでありました。
 いのちを守るために平和の確立が不可欠であるとして、教皇様は広島と長崎で、力強く核兵器の廃絶について語られました。なかでも広島では、核兵器の使用だけではなく、核兵器の製造や保有も倫理にもとるのだと指摘され、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか」と述べて、「真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と指摘されました。
 また社会の現実を的確に把握しながら、東京ドームのミサ説教で、次のように述べています。
 「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました」
 東北の被災者との集いでも、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べ、人間関係の崩壊が社会における孤立や孤独を生み出し、ひいては神からの賜物であるいのちを危機にさらしているのだと指摘されました。
 教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。闇雲に出向いていくのではなく、助けを必要としている人のもとへと出向いていく教会であります。孤立しいのちの危機に直面している人のもとへと、出向いていく教会であります。
 対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する姿勢を示してこられました。とりわけ教会は、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと招かれています。
 東京ドームミサで教皇様は、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と述べ、その上で、次のように力強く呼びかけます。
 「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」
 裁き排除する社会は、いのちを危機にさらします。その社会の中で、当たり前のように「いのちを守るための行動を」と呼びかけがある今だからこそ、わたしたちはさらに声を大にして「すべてのいのちを守るため」の行動を呼びかけたいと思います。神のいつくしみと対峙する価値観が支配しようとしている社会の中で、勇気と熱意を持って、さらには教皇様を迎えた時のような大きな喜びのうちに、神のいつくしみをあかしし続けたいと思います。

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