教皇フランシスコ、2021年3月14日「お告げの祈り」でのことばと、『愛のよろこび』家庭年に向けた呼びかけ

 

教皇フランシスコ、2021年3月14日「お告げの祈り」でのことばと、
『愛のよろこび』家庭年に向けた呼びかけ

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 『愛のよろこび』家庭年が、この金曜日、3月19日の聖ヨセフの祭日から始まります。この年は、家族の愛に包まれて人々が成長するための特別な年です。家庭に教会と社会の注目を集めるために、創意にあふれる新たな司牧活動を行ってください。それぞれの家庭が、自分たちの家にナザレの聖家族が生き生きと息づいていると実感できるよう祈ります。聖家族がわたしたちの小さな家庭共同体を、誠実で大きな愛で満たしてくださいますように。その愛は、試練や苦境における喜びの源なのです。

(「お告げの祈り」後のことばからの抜粋)

*     *     *

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 四旬節第四主日の今日のミサの典礼は、「神の民よ、喜べ……」(イザヤ66・10参照)という呼びかけで始まります。どうして喜ぶのでしょう。四旬節の最中に、なぜそのように喜ぶのでしょう。今日の福音はこう告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。この喜びの知らせは、キリスト者の信仰の核心です。神の愛は、弱く罪深い人間に独り子をお与えになることにより頂点に達しました。神はわたしたちすべてに、御子をお与えになったのです。

 この箇所は、同じ福音箇所に記されている、ある夜に交わされたイエスとニコデモの間の会話の一部です(ヨハネ3・14-21参照)。ニコデモは、他のイスラエルの人々と同じように、世界を力で裁くことのできる力強いメシアを待ち望んでいました。しかし、イエスは三つの姿でご自分を示すことにより、その期待を裏切ります。十字架に上げられた人の子、救済のために世に遣わされた神の子、そして真理に従う者と嘘に従う者とを見分ける光です。この三つの姿について考えましょう。人の子、神の子、そして光です。

 最初に、イエスは人の子としてご自分を示されます(14-15節)。この箇所は、人々が毒蛇に襲われたときに、モーセがみ旨に従い、荒れ野でかかげた青銅の蛇を思わせます(民数記21・4-9参照)。蛇にかまれても、その青銅の蛇を見上げれば救われました。同じように、イエスは十字架上にかかげられ、イエスを信じる人は罪から救われ、いのちを得るのです。

 次に神の子の姿です(16-18節参照)。神は御子を「お与えになる」ほどに、人間を愛しておられます。神は受肉を通して御子をお与えになり、死に渡されることを通して御子をお与えになりました。人が永遠のいのちを得るために、お与えになったのです。実際、神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世界をとがめるためではなく、イエスによって世界が救われるためです。イエスの使命は救済です。すべての人を救うことです。

 三番目に、イエスは「光」という名でご自身を称されます(19-21節参照)。福音はこう告げています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(19節)。この世にイエスが来られたことにより一つの選択が課せられます。闇を選ぶ人は、有罪の裁きを受けます。光を選ぶ人は、救いの裁きを受けます。裁きはつねに、各々の自由な選択の結果としてくだされます。悪い行いをする人は闇を求めます。悪はいつもひそかに隠れています。真理を行う人、つまり善を行う人は、光の当たるところに来ます。そこではいのちの道が照らしだされます。光の中を歩む人、光に近づく人は、善行をせずにはいられません。光が善を行うよう導くからです。わたしたちが四旬節の間に尽力するよう求められていることは、自分の意識の中に光を受け入れること、そして、神の永遠の愛に向けて、優しさと善に満ちた神のいつくしみに向けて、神のゆるしに向けて心を開くことです。謙虚にゆるしを乞うなら、神は必ずゆるしてくださることを、どうか忘れないでください。ゆるしを乞うだけで十分です。そうすれば神はゆるしてくださいます。そして、わたしたちは真の喜びを味わいます。いのちを新たにし、与えてくださる神からゆるされ、喜びます。

 イエスが「危機に陥った」ままわたしたちを放っておくのではないかという恐れに捕らわれないよう、至聖なるマリアがわたしたちを助けてくださいますように。それは、わたしたちのためになる健全な危機で、わたしたちがいやされ、喜びに満たされるためにあるのです。

 

PAGE TOP