「2021年すべてのいのちを守るための月間」に寄せて
日本カトリック司教協議会会長カテケージス 「環境問題と福音化」

「2021年すべてのいのちを守るための月間」に寄せて 日本カトリック司教協議会会長カテケージス 「環境問題と福音化」 1. 環境問題への世界の取組み  カトリック教会においては、環境問題への取り組みは以前から行われていた […]

「2021年すべてのいのちを守るための月間」に寄せて
日本カトリック司教協議会会長カテケージス
「環境問題と福音化」

1. 環境問題への世界の取組み

 カトリック教会においては、環境問題への取り組みは以前から行われていたと思いますが、特に教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ Laudato si’1』(2015年5月24日)の公布以後大きく取り上げられ、教会全体で取り組むべき喫緊の課題の一つとしてクローズアップされてきました。
 しかし、国連総会は、すでに1972年12月15日に日本とセネガルの共同提案により6月5日を「世界環境デー」と定めており2、日本では環境省の主唱により、1991年度から6月の1ヶ月間が「環境月間」とされています。また「環境基本法」(1993年11月19日)により、「事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高める」という目的で6月5日を「環境の日」と定められています。さらに、2001年に国連でミレニアム開発目標(MDGs)が策定され、2015年9月の国連サミットにおいて加盟国全会一致で「持続可能な開発のための2030年アジェンダ」が採択され、その中に「持続可能な開発目標(SDGs=Sustainable Development Goals)が記載されました。これは、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標ですが、17の目標とそれぞれの目標のターゲットが合わせて169掲げられています。これらは非常に具体的な内容ですので、大いに参考にしたいと思います。
 キリスト教においては、すでに正教会が、コンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス1世の発意により、1989年から9月1日を「被造物のために祈る日」と定め、2007年以後キリスト教諸教会および諸共同体は9月1日~10月4日を「被造物保護期間」として守るようになりました。教皇フランシスコは、2015年5月に回勅『ラウダート・シ』を公布された3カ月後の8月6日の書簡で、カトリック教会もこのエキュメニカルな動きに合流し、同年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」に定めることを表明されました。日本の教会では、翌年の9月の第一日曜日を「被造物を大切にする世界祈願日」としました3。また、教皇は、2019年の同祈願日のメッセージの中で、9月1日~10月4日(アシジの聖フランシスコの記念日)を「被造物の時節(Season of Creation/ Tempo del creato)」とし、その期間中祈りをし、行動を起こすよう強く勧められました。日本の教会では、2020年2月の度定例司教総会において、教皇訪日のテーマと一貫性をもたせるために「すべてのいのちを守るための月間」と称することにしました。
 さらに2021年5月25日、教皇フランシスコは、統合的エコロジーをテーマにした回勅『ラウダート・シ』が示す目標に向かって歩むための向こう7年間のプロジェクト、「ラウダート・シ・アクション・プラットフォーム Laudato si’ Action Platform」の発足を発表されました。これには、すべての人々、特に「家族」、「小教区と教区」、「教育機関」、「医療機関」、「信徒グループや市民団体」、「経済セクター」、「修道会」の7つの団体に参加が呼びかけられ、回勅から採った目標として「地球の叫びへの応答」、「貧しい人の叫びへの応答」、「エコロジカルな経済」、「持続可能なライフスタイルの採用」、「エコロジー教育」、「エコロジカルな霊性」、「共同体としての取り組みと参加型の行動」の7つが掲げられています。

2. 人間の生活環境の現実を正しく識別する。
 さて、わたしたちの生活環境は、自然環境と社会環境から成っています。
 自然環境の深刻な現実については、『ラウダート・シ』の第一章4で具体的に述べられています。大気汚染と気候変動、水の不足と汚染、多様な生物の絶滅など枚挙にいとまがありません。自然環境については、それがわたしたちとどのような関係にあり、わたしたちはそれに対してどのようなかかわり方をしてきたか、という観点から見る必要があります。
 社会環境は、人間の行動、生産から消費の生活に直接、間接の影響を与える社会的諸条件(組織、制度、階級、構造、慣習など)の総体を指しますが、自然環境と緊密かつ複雑に絡み合っています。社会環境は、人間同士の関係がつくる環境と見ることができます。教皇は、これが悪化しており、その原因に注意を向けなければ、自然環境の悪化に立ち向かうことはできない、と述べておられます5
 この二つの環境を、わたしたちキリスト者は、神および神とわたしたちとの関係の視点から見る必要があります。

3. 環境問題と福音宣教
 環境問題は、単に自然環境そのものの問題に限られるのではなく、わたしたちキリスト者にとって、環境との関係を、神との関係および人間同士の関係と結びつけながら理解しなければなりません。そしてそれらの関係全体を新しくしてくださったキリストを福音として受け入れ、生きて証しすることが福音宣教、あるいは福音化と言えるでしょう。わたしたちは、自然環境と社会環境にかかわるすべての生活領域にわたって、キリストにおいて、キリストと共に、キリストによって父である神とほかの人々そして被造物とかかわらせていただいているのです。
 そこで、聖書に基づいて、神と人間と自然環境の関係を見てみましょう。

(1) 神が望んで造られたのは、神と人と自然環境が調和した世界
 神は天と地と海とそこにあるすべてのものを創造されました6。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは」この「天地の主」(使徒言行録17・24-25)です。神は、特に、人間をご自分にかたどり、似せて男と女に創造されました7。そして神にとって、造られたすべてのものは「極めて良かった」(創世記1・31)のです。
 このように神が人間とその住まいとして自然環境を創造されたことによって、神と人間および自然環境との間、人間と神、人間同士、人間と自然環境との間に切っても切れない親密な関係がつくられたのです。それだけではなく、神は人々と共にいて、絶えず見守り、慈しみを示しておられます。神は、存在するものすべてを愛し、すべてをいとおしんでおられます8。まさに「地は主の慈しみに満ちている」(詩編33・5)のです。

 この神と人と自然環境の関係が神の望まれる調和のとれた状態にあったことを象徴的に表すのがエデンの園です。神は人をエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされました9。「耕す」と訳される動詞(アーバード)には「仕える」、「働く」という意味もあります。これは、神が天と地を「混沌として創造されたのではなく、人の住むところとして形づくられた」(イザ45・18)ということと同じです。水も富も豊かなエデンの園、特にその中央にあったとされている「命の木」は、人間が神との間にも、人間同士と環境との間にも調和のとれた親しい関係をもっていたことを象徴しています。それは、充実したいのちのきずなで満ちている状態です。エデンの園は後々まで理想郷として理解されていました10。『黙示録』の神の楽園の命の木11は、キリストがもたらした永遠のいのちを暗示しています。

 人間同士の間には、一人ひとりに同じく等しい尊厳と、皆が互いに信頼しあう関係が与えられました。なぜなら、男と女のどちらも、等しく神にかたどり、似せて造られ、また互いに相手がいなければ生きることができない存在として造られ12、裸であったが恥ずかしいと思わない13、つまり完全に信頼し合うものとして造られたからです。

 神は人間に「地を従わせ」「生き物をすべて支配せよ」(創世記1・26, 28)と言われました。確かにヘブライ語の動詞「カーバーシュ」は「服従させる」、「征服する」を意味し、「ラーダー」は「踏み潰す」、「支配する」ことを意味します。人間社会の統治者にたとえるなら、彼らは、歴史を通してしばしば人々を抑圧し苦しめてきました14。しかし、ここでは、必ずしも「独裁政治」や「専制政治」ではなく、自国民を愛し、貧しい人や弱い人を憐れみ救う理想的な王の統治の意味合いを持っています15。そのような王の統治は、まず地球上のすべてのいのちを愛し、その営みを慈しみ深く導いておられる神に見られます16。まず神がすべてを生かし治める方なのです。人間は、その神の権能にあずかるだけです17。従って、人間はいわば管理権を与えられているにすぎません。そして、それには忠実さと責任が伴うはずです18。医師の中村哲さんは、アフガニスタンでクナール川から取水して27kmにも及ぶ用水路を6年かけて造り、65万人の人々のいのちを支えました。しかし彼は、難工事を強いる自然の力を目の当たりにして「主役は人間ではなく大自然である。人はそのおこぼれに与かって慎ましい生を得ているにすぎない。」という教訓を得たといいます19。人間にはそのような心構えが必要です。
 人間とほかの生き物との関係について言えば、神は、人間に「種を持つ草と種を持つ実をつける木」を、ほかのすべての命あるものには「あらゆる青草」を与えたと記されています20。食べ物として、人間には穀物と果物、ほかの生き物には青草が与えられたということは、人間とほかの生き物が、食べ物に関して争う必要がなかった、つまり、人間とほかの生き物が争い合うことはなかったのです。

 実際には、特に18世紀半ばに始まった産業革命以後そうであったように、人間は、自然環境の上に君臨し、専制的で横暴で、搾取してきたと言っても過言ではないでしょう。しかし決してそうであってはなりません。むしろ、それに仕えるという心で、また神から与えられた才能や力を用いて働くことによってもたらされる恩恵に感謝しながら21、愛情をもって接し、大切に守り、育てることこそ重要なのです。イエスの教えもこれに通じています。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20・25-27)

(2) 人間の罪によって調和を失った世界
 聖書は、神が造られた世界の調和は、人間が神を神として認めず、その意に背いた結果失われた、と教えます。神は、自らエデンの園に住まわせた人間にこう命じます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木から、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ。」(創2・17)ところが、人間は巧みな誘いに負けて、その実を取って食べたのです。こうして神のみをいのちの源とし、善悪の唯一最高の基準とすべきという神の望みに従わなかった結果、人間は、まず神を避け、恐れて、隠れます22。それは、「死ぬ」こと、つまり神との親しいきずなを失うことを意味します。
 その結果、さらに人間同士は信頼関係を失い、支配関係に入ります23。同時に、人間と環境との調和が失われます24。人間同士の関係は兄弟殺しや復讐の連鎖となって悪化の一途をたどります25。ノアの洪水の後、すべての生き物は人間の前で恐れおののき、人間の食糧とされていきます26。また、人々は戦争によって環境を破壊しました。戦争では、人々のいのちだけでなく、ぶどう、オリーブ、いちじくなどの果樹や小麦などの穀物、家畜に至るまで焼き払われるのが常でした27。樹木は武器に利用されたり、戦闘で切り倒されたりしましたが28、特にレバノン杉は、紀元前3,000年頃から近代に至るまで、近隣諸国の権力者たちによって住居や船舶のために乱伐されました29
 人間の最初の罪とその結果について、第二バチカン公会議は次のように教えています。「人間は神によって義の状態に置かれたにもかかわらず、悪霊に誘われて、歴史の初めからその自由を濫用し、神に逆らい、自分の目的を神以外のところで達成しようと欲した。(…)しばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、自分の究極目的に向けられているはずの秩序を破壊すると同時に、自分自身と他者および全被造物との間にある自らの完全な調和を破った」(『現代世界憲章』13)のです。このように、そもそも環境の諸問題の元凶は、神と正しくかかわってこなかった人間にある、と言わなければなりません。

(3) 失われた調和を回復させ一新したキリスト
 ところで、「神は、人々を個別的に、まったく相互のかかわりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に仕える一つの民として確立することを望んだ。」(『教会憲章』9)すなわち神は、ご自分を中心として生きる本来の人類をつくるために、まずアブラハムを召し出して一つの民から育てようと望み、彼らを隷属の地エジプトから救い出して、いのちの契約を結び、神の民とされました。しかし民は神との契約を守らず、預言者たちの働きかけも空しく、人類に開かれないままの状態にとどまりました。彼らには神への立ち帰りが必要でした。そこで、御父はいっさいのものをご自分の独り子において刷新することを望み30、救い主として世にお遣わしになりました。イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・15)と言って、救いのわざを始められました。
 こうして、イエス・キリストは、壊されていた人間と神・人間同士・人間と環境の関係を立て直し、新しくしてくださったのです。キリストは、十字架上で死ぬという神の愛によって、まず人間と神を和解させ31、同時に人間同士32と環境との和解33を実現しました34
 この出来事が「福音」です。そしてその福音の源が神の子救い主イエス・キリストご自身です35。なぜなら、神のことばそのものであり36神の知恵であるイエスご自身37から、いのちの言葉が発せられ、救いの業が生まれたからです。そしてイエスが語った神のことばと行った救いの業が聖霊の働きにより使徒たちを通して聖書と聖伝に収められ、教会の中で伝えられてきました。福音そのものであるイエス・キリストが信じる人々のことばと業によって伝えられる福音となったのです38。従って、それを受け入れ、信じる人々は神の救いの恵みを受け、新しい神の民、すなわち教会の成員となります。福音として告げられた主の言葉は救いの言葉であり39、永遠に変わることがないからです40。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11・25)というイエスのおことば通りです。

A. わたしたち人間と神の関係
 福音は、まず、イエスご自身が神の愛の現れだということです。神がまずわたしたちを愛してくださったのです41。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・6-8)実に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)イエスは、「すべてが造られる前に生まれた方」、「見えない神の姿」(コロサイ1・15)、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1・3)、人間となられた神のことば42であり、知恵です43。そのため、イエスは「わたしを見た者は父を見たのだ。」(ヨハネ14・9)と言われたのです。イエスは、神からの愛を表すことによって、ご自分の方から人間との和解を実現し、壊れていた人間との関係を回復し新しくしてくださいました。

 この神の愛がどのような性質のものかについて、イエスは、まずたとえなどを用いて言葉で教えてくださいました。父である神は人間のいのちを野の花や鳥よりはるかにまさり価値があるものとして養っておられること44、また多くの実を結ぶために死ぬ一粒の麦45、失われた一匹の羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼い46、自分のいのちを羊のために与える羊飼い47、回心して戻ってきた放蕩息子を大喜びで無条件に迎える父親48などのたとえがそうです。
 イエスは、その神の愛をことばだけでなく行いによって現わしてくださいました。まず、あらゆる病人を癒し、苦しむ人々を解放してくださいました49。最後には、御父から遣わされた独り子として、十字架の上でご自分のいのちをささげ、復活することによってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを悪と罪と永遠の死から救い、神の子としてくださいました。これは神の愛の最高のわざです。
 このように、イエスは十字架上でいのちをささげることによって人類を救いました。十字架の縦の木は、神の人類への愛と同時にイエスが代表する人類の神への愛を象徴し、横木はイエスの人類兄弟への愛と同時に人間同士の愛および被造物への愛を象徴していると言うことができるでしょう。そして縦の木がなければ、横木は成り立ちません。つまり、神からのわたしたちへの愛と、わたしたちからの神への愛が土台となって、わたしたち同士と自然環境との関係も成立するのです。

B. わたしたち人間同士の関係
 イエスは、すべての掟の要は神と人への愛であると言明され、神の愛と隣人愛が不可分であることを教えられました50。ヨハネ福音書には神とわたしたちとの関係がどれほど深いかが説明されています。イエスは御父の内におり、御父はイエスの内におられる51。イエスを愛する人を御父も愛され、御父とイエスはその人のところに行って一緒に住むのです52。またイエスが死んで復活した後、御父が遣わす聖霊はわたしたちと共に、わたしたちの内におられるというのです53。実際、主イエスは、聖霊によってわたしたちの心に神の愛を注ぎ54、その愛を相互愛によって現わすよう諭されます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15・12)こうして兄弟を愛する人は神を愛し、神を愛する人は兄弟を愛することになるのです55。ここでいう「兄弟」は、性別、年齢、心身の健康状態、出自、職業、国、言語、文化、宗教などの違いがあっても、それを超えて尊重されるべきすべての人のことです。従って、すべての人は、互いに相手の人間としての尊厳と基本的人権を尊重し、偏見や差別、いじめ、あらゆる暴力など、危害を及ぼすものからいのちを守り、貧困、飢え、難民生活などで苦しんでいる人々を助け支えるよう神から召されています。イエスのたとえの「善いサマリア人」はそのよい模範です56
 ところで、新しい神の民である教会は、人と神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり、道具です57。つまり、教会共同体は、すべての人にとって神との交わりと人間同士の交わりが実現し、広めるはずのものです。

C. わたしたち人間と環境の関係
 すべてのいのちは愛そのものである神から来ます。実際、愛によって天と地とそこにあるすべてのもの、すなわち天体、あらゆる動植物、特に人間は創造されました。「憎んでおられるのなら、造られなかったはず」(知恵の書11・24)だからです。
 神は、「一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」(使徒言行録17・25-26)大地を人間が住み、耕し守る所として備え、太陽の光と水を与えて、すべての生き物を養い、人間には自分のいのちを養うための能力と労働、それによって得る作物、家畜や海の幸を豊かに恵み、生きる喜びを与えてくださいます58。神は、いのちを愛し、いのちといのちを支えるすべてのものをいとおしまれます59。この神の愛がすべてであり、わたしたちはその愛を知り、信じています60
 イエスは、地上での生活を通して、また話の中で、空の鳥、野の草花61、種蒔き62、麦畑63、からし種64、ぶどう園65、ぶどうの木66、山67、漁と魚68などに愛情をもって自然界に触れられました。
 なによりも、神は御子の「血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分を和解させられました。」(コロサイ1・20)。そして、すべての被造物も神からの救いを待ち望んでいるのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。(…)つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8・19-24a)

 以上のことについて、第二バチカン公会議は、こう教えています。「高慢と無秩序な自己愛によって日々危険にさらされているあらゆる人間活動は、キリストの十字架と復活によって清められ、完全なものとされるべきである。キリストによってあがなわれ、聖霊において新しい被造物とされた人間は、神によって造られたものを愛することができるし、また愛さなければならない。実際、人間はそれらを神から受け、神の手からほとばしり出るようなものとして受け止め、尊重する。人間は、その贈り主に感謝し、清貧と精神の自由をもって被造物を利用し享受することによって、無一物のようでありながら、すべてのものを所有し、真に世界を所有するものとなる。『いっさいはあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストのものは神のものである』(一コリント3・22-23)」(『現代世界憲章』37)。
 従って、存在するすべてのものを愛し69、「造られたすべてのものを憐れむ」(詩145・9)神が、御子の十字架の血によって万物をご自分と和解させられたのですから、わたしたちキリスト者は、まずその神の愛をしっかり受け止め、その愛の力によって造られたものをいとおしむだけでなく、傷を癒し、損壊を修復するよう努めなければなりません。たとえば、「経済開発計画においては『自然の生態系を尊重する必要』が十分考慮されなければなりません。」(『教会の社会教説綱要』470)
 わたしたちは、わたしたち人類の共通の家である、この地球環境をいとおしみ、大切にしないではいられません。どうしてそれを汚したり、傷つけたり、破壊したりすることができるでしょうか。そのような行為は、わたしたち自身と後の世代に対する不当な行為であるという自覚を深め、適切な考えと行動をしなければなりません。

(4) 福音化(福音宣教)
 復活されたイエスは、弟子たちにこう言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)この「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」とはどういう意味か、黙想するといいでしょう。
 福音宣教と言えば、従来は、「キリストを知らない人々に教え、説教し、信仰教育をし、洗礼と他の秘跡を授けることと定義されていました」。しかし、「すべての必要な要素を一望のうちにおさめないかぎり」、正しく理解することはできません70。「教会にとって福音をのべ伝えるとは、『よい知らせ』を人類のすべての階層にもたらし、『わたしは万物を新しくする』とあるように、固有の力で人類を内部から変化させ、新しくするという意味をもっています。(….)福音化の目的は明らかに、この内的変化であります。(….)教会がのべ伝えるメッセージの神聖な力によって、人々各自の、あるいは集団的な良心、彼らが従事する活動、彼らの生活や具体的環境を変えようと努めるとき」、「教会は福音をのべ伝えていると言えるでしょう。」(『福音宣教』18)福音宣教(evangelization)が以上のような意味を持っているなら、「福音化」という用語がより適切と思われます。しかし、社会環境を福音化するためには、福音化するキリスト者がまず福音化される必要があります71
 上述したように、キリストは、十字架上で死ぬという神の愛によって、人間と神を和解させ、また人間同士と環境との和解を実現しました。この出来事が福音です。そしてその福音の源が神の子救い主イエス・キリストご自身(マルコ1・1)です。従って、その福音には、わたしたちが自然環境に対してどのように振る舞い、どのようにかかわるべきかについての教えも含まれています。言い換えると、社会環境だけでなく、自然環境に対して、キリストによって示された神の愛を実践することが福音宣教、つまり福音化になるのです。

2021年8月6日 主の変容の祝日

日本カトリック司教協議会
会長 髙見 三明

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