教皇フランシスコ、2021年8月8日「お告げの祈り」でのことば

 

教皇フランシスコ、2021年8月8日「お告げの祈り」でのことば

兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 今日の典礼の福音では、パンが増えた奇跡を目撃した人々に対して、引き続きイエスが教えを説いています。まず、荒れ野での長旅で神が先祖に与えられたマナのことを思い起こさせ、そして、パンという象徴をイエス自身に当てはめるのです。このようにイエスはパンについての理解の質的な飛躍を人々に促します。イエスははっきりと述べます。「わたしは命のパンである」(ヨハネ6・28)。

 「いのちのパン」とはどういう意味でしょうか。生きるためには、パンが必要です。飢えている人は、上品で高価な食べ物ではなく、パンを求めます。仕事のない人は、莫大な給料ではなく、雇用という「パン」を求めます。イエスは自らをパン、つまり、日常生活に欠かせないものとして現したのであり、イエスなくして生活は成り立たないのです。数あるパンの中の一つではなく、いのちのパンなのです。言い換えれば、このかたがいなければ、わたしたちは生きているのではなく、なんとかやっているだけなのです。なぜなら、イエスだけがわたしたちの魂を養い、イエスだけがわたしたちが自分の力では克服できない悪をゆるすことができるからです。わたしたちが失望しても、イエスだけがわたしたちは愛されていると感じさせてくれます。イエスだけが困難にあってもゆるす力を与え、求める心に平和を与え、この地上の人生が終わったときに永遠のいのちを与えてくださるのです。主はいのちに欠かすことのできない本質的なパンなのです。

 「わたしは命のパンである」。イエスはこのように語ります。このイエスの美しい姿にしばしとどまりましょう。イエスは根拠や実証を示すこともできましたが、皆さんもご存知の通り、イエスはたとえを用いて話されます。そして「わたしは命のパンである」というこの表現に、イエスの全存在と使命が集約されているのです。このことは、最後の晩さんで完全に明らかにされます。イエスは、御父の望みを知っています。それは、イエスがただ人々に食物を与えるだけではなく、わたしたちがいのちを得るために、イエス自身を、そのいのちを、肉を、心を、裂いて与えるように、御父が求めておられるということです。主のこの言葉は、わたしたちのうちに、聖体のたまものに対する驚きを呼び覚まします。この世に、どんなに他の人を愛しても、自分がその人の食べ物になれる人はいません。神はわたしたちのためにそうしてくださいましたし、今もそうしてくださっているのです。この驚きを新たにしようではありませんか。「いのちのパン」を礼拝することによって、わたしたちもそれを実行しようではありませんか。礼拝することにより、わたしたちの人生は驚きで満たされるのです。

 しかし、福音書では、人々は驚くどころか、うろたえ、服を引き裂いてしまいます。「わたしたちはこのイエスを知っているし、彼の家族も知っている。どうして彼が『わたしは天から降って来たパンである』などと言うことができようか」(41ー42節参照)。人々はこのように考えています。もしかしたらわたしたちもうろたえてしまうかもしれません。神がわたしたちの生活に関与することなく天にとどまり、地上のことはわたしたちでなんとかする方が、わたしたちにとって心地よいと思うかもしれません。しかし実際には、神はこの世界の具体的な現実に入り込むために人となられました。わたしたちの具体的な現実に入り込むために、わたしのために、あなたのために、わたしたちすべてのために、わたしたちの人生に関わるために、神は人となられました。そして、神はわたしたちの人生のあらゆる側面に関心をもっておられます。わたしたちは、自分が感じていること、仕事、一日の出来事、心の痛み、苦悩など、多くのことを神に伝えることができます。わたしたちは神にすべてのことを話すことができます。なぜならイエスがわたしたちとそのような親密な関係を持つことを望んでおられるからです。イエスが望んでおられないことはどのようなことでしょう。「パン」である自分が、サイドディッシュのように傍に追いやられること、見落とされ、脇に置かれること、必要な時にだけ呼び出されること、このようなことをイエスは望んでおられません。

 「わたしは命のパンである」。少なくとも一日に一度は、わたしたちは食事をともにするでしょう。おそらく、それは仕事や勉強が終わった夜の家族とともにする食事でしょう。パンを裂く前に、いのちのパンであるイエスを招き、わたしたちが行ったこと、またできなかったことを祝福してくださいとイエスに願うのもいいのではないでしょうか。イエスをわたしたちの家に招き、「家庭的」なスタイルで祈りましょう。イエスはわたしたちとともに食卓につき、わたしたちはより大きな愛によって養われることになるでしょう。

 おとめマリアよ、御身のうちにみことばは肉となられました。わたしたちが、いのちのパンであるイエスとの友情の中で、日々成長することができるよう、どうぞお助けください。

(この訳は暫定訳であり、カトリック中央協議会発行書籍に掲載された時点で差し替えます。)

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