第56回「世界広報の日」教皇メッセージ(2022.5.22)

第56回「世界広報の日」教皇メッセージ 心の耳で聴く 親愛なる兄弟姉妹の皆さん  昨年は「来て、見る」ことが、現実を知るために、そして出来事の体験や人との直接の出会いから現実を伝えるために必要であることを考察しました。そ […]

第56回「世界広報の日」教皇メッセージ
心の耳で聴く

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年は「来て、見る」ことが、現実を知るために、そして出来事の体験や人との直接の出会いから現実を伝えるために必要であることを考察しました。その流れで今年は、別の動詞、「聴くこと」に着目したいと思います。これはコミュニケーションのいろはには欠かせないもので、真の対話の絶対条件です。

 実際わたしたちは、日常の普通の人間関係にあっても、また市民生活にかかわる重要なテーマの議論にあっても、目の前にいる人に耳を傾けるという能力を失いつつあります。と同時に聴くことは、ポッドキャストやボイスチャットなどが利用されることによって、通信や情報の分野でかつてない重要な発展を示しています。人間のコミュニケーションにとって、聴くことは依然として不可欠であることを裏づけているのです。

 ふだんは心の傷の治療に携わる著名な医師が、人間がもっとも必要とするものは何かと問われました。医師は、「聞いてほしいという尽きない欲求」だと答えています。これはほとんど表に出ることのない欲求ですが、教育者や養成者と呼ばれる人たちに、それとどう向き合うのかと問うのです。親や教師、司祭や司牧担当者、メディア関係者、社会活動や政治活動をする人たちなど、伝える役割の人に対してです。

心の耳で聴く

 聖書のページからわたしたちは、聴くことは単に音声認識を意味するだけでなく、神と人間とを結ぶ対話による関係と本質的につながるものだということを学びます。律法の最初のおきての冒頭のことば「聞け、イスラエルよ」(申命記6・4)は聖書でずっと繰り返され、聖パウロが「信仰は聞くことにより……始まる」(ローマ10・17)と断言するまで続きます。確かに主導権は、わたしたちに語りかける神にあり、わたしたちは神に耳を傾けることで神にこたえます。しかしその聴くということも、そもそも神の恵みによるものであり、父母のまなざしや声に反応する乳飲み子と同じです。五感のうち神が重視するのは、まさに聴覚のようです。おそらく視覚よりも感度が問われ、注意が必要なので、人間の自由にゆだねられるからではないでしょうか。

 聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます。神がそのようなご自分を明かされるのは、聴くという行為によって可能となるのです。神は人間を愛しておられます。だからこそ神はみことばを人間に語り、だからこそ人間の声を聴くために「耳を傾ける」のです。

 一方人間は、聞かずに済むように、その関係から逃れよう、背を向けて「耳をふさいで」しまおうとしがちです。聞くことを拒否することは、助祭ステファノの話に耳をふさぎ一斉に彼に襲いかかった聴衆がそうだったように(使徒言行録7・57参照)、往々にして、相手への攻撃となってしまうのです。

 このように、一方には自由なコミュニケーションによってご自分を明かす神がおられ、他方には耳を澄ませ、聴くことを求められている人間がいるのです。主は、人間が余すところなくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです。

 だからイエスは弟子たちに、自分たちの聴く姿勢を検証しなさいと求めておられます。「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ8・18)。そう勧告したのは、種を蒔(ま)く人のたとえ話をし、ただ聞けばよいのではなく、しっかりと聴かなければならないと弟子たちに理解させた後のことです。「立派なよい」心でみことばを受け入れ、それをよく守る人だけが、いのちと救いの実をもたらすのです(ルカ8・15参照)。話している相手、聞いている内容、聞き方に注意して聴くことによってのみ、コミュニケーションの作法を磨くことができます。作法の軸にあるのは理論や技法ではなく、「寄り添うことのできる心の力」(使徒的勧告『福音の喜び』171)です。

 皆に耳があって、しかも大方が申し分のない聴力に恵まれていても、他者の声を聞けないでいます。まさに、身体的なものよりもひどい、内的な聴覚障害があります。事実、聴くということは聴覚だけでなく人格全体にかかわっています。聴くことの真のメインステージは心です。ソロモン王が若くして知恵を発揮したのは、「聞き分ける心」(列王記上3・9)を与えてほしいと主に願ったからです。また聖アウグスティヌスは、心で聴くこと(corde audire)、つまり、ことばを外にある耳でではなく、霊的に心で受け取るよう勧めました。「耳に心をもつのではなく、心に耳をもちなさい」1。さらにアシジの聖フランシスコは、「心の耳を傾けてください」2と兄弟たちを諭しました。

 真のコミュニケーションを求めるうえでまず再認識すべき聴く姿勢は、自分自身に耳を傾けること、つまり自分の真の望み、各人の内奥に刻まれているものに聴くということです。それにわたしたちを被造界の中で唯一無二の存在にしているもの、すなわち他者および絶対他者である神とかかわりたいという欲求に聴くことによってのみ、スタートし直すことができるのです。わたしたちは自己完結している原子としてではなく、ともに生きるように造られているのです。

よいコミュニケーションの条件である聴くこと

 正しく聴くことではない、それとは逆の聞き方があります。盗み聞きです。事実、これまでもこれからも存在し、今日のSNS時代にいっそう顕著になっているのは、自分の利益のために他者を利用しようとする、盗み聞きとのぞき見の誘惑です。それに対して、コミュニケーションを良好で完全に人間らしいものにするのは、まさしく顔と顔を突き合わせ、目の前にいる人に耳を傾けること、向き合おうとする他者に誠実に、信頼をもって、正直に心を開いて耳を傾けることです。

 残念なことに、聴くことの欠如は日常生活でたびたび経験されますが、それは政治の世界でも顕著で、そこでは大概、相手に耳を傾けるのではなく互いに言いっ放しです。これは、真理や善よりも周囲の賛同を求めていること、相手に耳を傾けるのではなく聴衆に聞き耳を立てていることの表れです。対してよいコミュニケーションとは、相手を揶揄する意図のあるジョークで聴衆に印象づけようとするのではなく、相手の理屈に注意深く耳を傾け、現実の複雑さを理解しようと努めることです。教会でさえイデオロギーの派閥が形成され、耳を傾ける姿勢が消え去り、不毛な対立に場を明け渡しているのなら、それは悲しいことです。

 実際のところわたしたちの対話では、きちんとしたコミュニケーションがほとんど取れていません。自分の見解を押しつけるために、相手が話し終えるのを待っているだけです。そうした状態では、哲学者エイブラハム・カプランが指摘するとおり3、対話[dialogue]が「二人が話すこと[duologue]」、つまり二者の独白[monologue]になっているのです。一方、真のコミュニケーションでは、「あなた」と「わたし」の双方が「出向いて」、互いに歩み寄っているのです。

 ですから聴くことは、対話にも正しいコミュニケーションにも、いちばんで不可欠な要素です。まず聴くということをしなければコミュニケーションは成立しませんし、聴く力がなければ、優れた報道はできません。確実で良識ある包括的な情報を提供するには、長期にわたり耳を傾けることが必要です。ルポとして何らかの出来事を報告したり、現状を描いたりするには、耳を傾ける技術の獲得と、自身の考えを変えて当初の仮説を修正することもあるとの覚悟が必要です。

 独白から脱却しなければ、真のコミュニケーションの保証となる多声でなる一致には至れません。「一軒目の居酒屋に長居はするな」とその道のプロが教えるように、より多くの情報源に耳を傾けたということが、伝達する情報の信頼度と深刻度の確証となります。より多くの声を聞くこと、互いに耳を傾け合うこと、教会においても兄弟姉妹の間でもそれをすれば、わたしたちは見極める力を発揮できるようになります。これはつねに、多声でなる合唱曲へと向かわせる力となって現れるのです。

 しかしなぜ、聴くことは大変なのでしょうか。聖座の偉大な外交官であったアゴスティーノ・カサローリ枢機卿は、「忍耐の殉教」について語っています。非常に難しい人物相手の交渉において、自由が制約される中で最大限の益を得るには、相手に耳を傾けること、そして相手に耳を傾けてもらうことが必要です。それほど厄介な状況ではないにしても、話を聞くには、つねに忍耐の徳と驚く力が求められます。話している相手のもつ真実、それが真実の一片にすぎないとしても、その真実に驚嘆する能力です。驚きだけが知識を与えてくれます。目を丸くして、周りの世界を見ている子どもの尽きることのない好奇心です。大人の自覚をもって子どものように驚く——この心構えで聴くことは、積み重なって豊かさをもたらします。というのも、わずかなものであったとしても、相手から学んで自分の人生に生かせる何かは必ずあるからです。

 長期にわたるパンデミックで傷ついた今、社会の声に耳を傾ける力はとても重要です。「公式発表」に対して積み重ねられた強い不信感が、「インフォデミック(訳注:「インフォメーション」と「エピデミック」を組み合わせた造語。事実と虚偽の区別が困難になるほどに情報が氾濫する状態を指す)」までをも引き起こし、そうなると情報世界の信頼性と透明性の確保はいっそう難しくなります。耳を傾け、じっくりと聴かなければなりません。とりわけ、多くの経済活動の減速や停止によって高まっている社会不安に対し聴くことが必要です。

 やむなく移住した人たちの現実もまた複雑な問題で、解決の処方箋はどこにもありません。何度も申し上げていることですが、移住者に対する偏見を乗り越え、わたしたちの頑迷な心を解きほぐすには、彼らの話に耳を傾ける努力が必要です。彼ら一人ひとりに名前と来し方があるのですから。多くの優秀なジャーナリストは、すでにそれを行っています。ぜひ、そうしたいと考えているジャーナリストもたくさんいます。彼らを励ましましょう。その話を聞きましょう。そうすれば、自国にとって最善と思う移民政策をだれもが先入見なく選べるようになるのです。しかしいずれにせよ目の前にあるのは、ただの数でも危険な侵略者でもなく、生身の人間の顔と人生であり、耳を傾けるべき人々のまなざしであり、期待であり、苦しみなのです。

教会の中で互いに耳を傾けること

 教会でも、耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それはわたしたちが互いに差し出しうる、もっとも尊く豊かな贈り物です。わたしたちキリスト者は、聴くという奉仕のわざが、最高の聴き手であられる神から任されたものであり、そのかたのわざに加わるよう求められていることを忘れてしまっています。「われわれが神の言葉を語ることができるためには、われわれは神の耳をもって聞かなければならないのである」4。プロテスタント神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーはこう語り、交わりにおいて、他者にささげるべき第一の奉仕のわざは、その声に耳を傾けることだと思い出させてくれます。兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう5

 司牧活動でもっとも重要な仕事は、「耳での使徒職」です。使徒ヤコブが、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く」(ヤコブ1・19)ありなさいと諭したように、話すよりも聞くことです。人々に耳を傾けるために自分の時間の一部を無償で差し出すことは、最初の愛の行為です。

 シノドスの歩みが始まっています。互いに耳を傾けるよい機会となるよう祈りましょう。交わりは作戦や計画の産物ではなく、兄弟姉妹が互いに耳を傾け合うことで築かれるものです。合唱と同じで、一致に必要なのは一本調子な画一性ではなく、多種多様な声音、多声音です。しかも合唱の各声は、他の声を聞きながら、合唱曲のハーモニーを意識しつつ歌われます。このハーモニーは作曲家が編み出したものではあっても、その実現は、全体と一人ひとりの声による合唱次第なのです。

 わたしたちに先んじ、わたしたちを含む交わりに参加しているとの自覚があれば、シンフォニックな教会を再発見することができます。それぞれが自分の声で歌い、他の声を贈り物と認め、聖霊が作曲する合唱曲のハーモニーを響かせる教会です。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2022年1月24日、聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士の記念日
フランシスコ

PAGE TOP