教皇フランシスコ、2022年10月5日一般謁見演説 4. 識別の要素―自分を知ること

 

教皇フランシスコ、2022年10月5日一般謁見演説
識別についての連続講話

4. 識別の要素―自分を知ること

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 今週も識別というテーマを掘り下げましょう。先週は祈りについて考え、祈りとは神への親しみであり信頼、また欠くことのできない要素であることを理解しました。オウムのようにではなく、神への親しみと信頼を持って祈り、御父に対して子どもとして祈り、こころを開いて祈るのです。そういったことを先週の講話でお話ししました。今日は、それを補完するために、良い識別には自己認識、つまり、自分を知ることも必要だと強調したいと思います。そして、これは簡単なことではありません。実際、識別には、記憶、知性、意志、愛情といった人間の能力もかかわってきます。しばしば、識別の方法が分からなくなります。というのも自分自身を十分に知らないからです。わたしたちが本当に欲しているものが分からないのです。わたしたちはしばしば、「あの人はなぜ自分の人生をきちんと整理しないのだ?彼は何がしたいのか、まったく分かっていない」と耳にします。そこまで極端ではなくとも、わたしたちにも起こり得ます。つまり、はっきりと何がしたいのか分からず、自分自身のことをよく理解していないのです。

 霊的な疑いや召命の危機の根底には、宗教的な生活とわたしたち人間、認識、感情の側面の間の対話が十分ではないということが少なくありません。霊的なことについて書いたある著者は、識別というテーマに関して、どれほど多くの困難があるか、つまり認識され、研究されるべき別の問題が複数あることを示しています。この著者は次のように書いています。「真の識別(そして祈りにおける真の成長)の最大の障害は、神という実体のない本質ではなく、わたしたち自身が自らのことを十分に知り得ていない、あるいは、ありのままの自分自身を知りたいとさえ思わないという事実であると、わたしは確信に至りました。わたしたちほぼ全員が、他者の前だけでなく、鏡を見るときでも仮面の下に隠れています(トマス・ヘンリー・グリーン、『Weeds Among the Wheat』、1984年参照)。わたしたちは皆、自分自身の前でさえ、仮面をつけたいという衝動があります。

 わたしたちの人生で神の存在を忘れることは、自分自身への無知と密接に関連しています。神を知らないことは、自分自身を知らないこと――つまり、人としての特徴やもっとも深くにある願望を知らないのと同じことです。

 自分自身を知ることは難しいことではありませんが、骨の折れることです。忍耐力を要する自分探しといえるでしょう。それは、自分の行動とわたしたちの内にある感情に気づき、繰り返し沸いてきて、わたしたちに条件を課す、しかも大体の場合無意識に湧いてくる考えがあることを認識するために、立ち止まる能力、つまり「自動操縦を解除する」能力を必要とします。さらに、感情と霊的な能力を識別することが求められます。「感じる」ことは「確信している」こととは異なります。「したい気がする」ということは「欲しい」とは同じではありません。ですから、自分自身や現実に対する考えは、時として幾分歪められているものだと理解するようになります。このことに気づくことは恵みです。実際、非常に多くの場合、過去の経験に従って、現実に対する間違った確信は、わたしたちに強く影響し、人生の中でとても大切なことを求める自由を制限してしまうことがあります。

 コンピューターの時代に生きているわたしたちは、もっとも個人的で、重要な情報が保管されているプログラムへ入るために、パスワードを知ることが、どれほど大切か分かっています。同様に、霊的生活にも「パスワード」があるのです。それらの言葉は、わたしたちのこころに触れるものです。というのも、そのことばはわたしたちがもっとも敏感なことに触れるものだからです。誘惑する者、つまり悪魔はそのキーワードをよく知っています。ですから、わたしたちもそのキーワードを知っていることは大切です。望まない状況に自分自身が置かれていると気づかないことがないように。誘惑は必ずしも悪いことを意味しませんが、しばしば過度に重要だと思いこませる場当たり的なものです。このようにして、誘惑は、とても重要なものがわたしたちの中で湧き上がったと見せかけて、わたしたちを洗脳します。それらは美しく見えますが、幻想にすぎません。それが約束を果たすことはないので、最終的にわたしたちは虚無感や悲しみの中に陥ります。このような虚無感や悲しみは、正しくない道を歩んでいるしるしであり、方向感覚が麻痺しているしるしです。例えば、地位や経歴や関係、これら自体は称賛に価するものですが、それらに向かう途中、わたしたちが自由でいられなければ、わたしたちは非現実的な期待――例えば、自分の価値を確信できるという期待――を抱えているリスクがあります。例えば、取り組んでいる勉強のことを考えるとき、自分自身の昇進や自分の利益のことだけを考えますか?それとも、共同体に奉仕することを考えますか?ここで、わたしたち一人ひとりの意図していることが分かります。最大の苦しみは、しばしばこの誤解から生まれます。というのも、これらはどれも、わたしたちの尊厳を保障するものとはなり得ないからです。

 ですから、親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたち自身のことを知ること、わたしたちにとってもっとも感じとりやすい、こころのパスワードを知ることは重要です。わたしたちを操作しようと、もっともらしい言葉で近づいてくる人から自分を守るためにも、また、わたしたちにとって何が本当に大切なのかを理解するためにも重要です。大切なことを、一時的に華やかに見えるものや見せかけのスローガンと見分けることも大切です。多くの場合、テレビ番組や広告で言われていることが、わたしたちのこころに迫り、自由もなくその方向へ突っ走らせています。これには気をつけましょう。わたしは自由でいるだろうか、それともその時の気分やその時の挑発に左右されていないだろうかと気をつけていましょう。

 そのような場合の助けになるのは、良心の糾明です。けれども、ここでお話ししているのは、告解に行ってわたしたちが行う良心の糾明のことではありません。つまり、「わたしはこのような、あのようなことで罪を犯しました」というものではありません。一日の全般的な良心の糾明です。この一日の中で、わたしのこころに何が起きたかを糾明するのです。「多くのことが起きた」ならば、それはどのようなことで、なぜでしょう?それらがわたしのこころに残したものはなんでしょう?ここで言う良心の糾明を行うことは、すなわち、今日一日に何が起きたのかを落ち着いて振り返ることで、良い習慣です。わたしたちの評価と選択の中で、何をもっとも重要とするのか、何を探しているか、そしてなぜ探しているのか、最終的に見つけたものは何か、に気づくことを学ぶのです。何よりも、わたしのこころを満足させることを理解することを学ぶのです。何がわたしのこころを満足させてくれるでしょうか?主だけが、わたしたちに、わたしたちの価値の確信を下さいます。主は毎日、十字架からわたしたちに語っておられます。主はわたしたちのために死なれましたが、それは主の目に映るわたしたちがどれほど大切なのかを示されるためです。主の優しい抱擁を妨げることができる障害も失敗もありません。良心の糾明は大いに助けてくれます。というのも、このようにして、こころは、わたしたちが知らないうちにすべてのものが通り過ぎてしまうような道とは違うのだと分かります。そうではありません。今日何が通り過ぎたか認識しましょう。こころに何が起きたのか?何にわたしは反応したか?何にわたしは悲しく思ったか?何に嬉しく感じたか?何が悪かったか?他者を傷つけてしまったか?要は、わたしたちの感情が通った道を見ることであり、一日の中でわたしのこころが魅了されたものを理解することなのです。忘れないでください。先日は祈りについて話しました。今週は自分自身を知ることについてお話しています。

 祈りと自分を知ることによって、わたしたちは自由さを増していきます。自由さを増すのです。これらはキリスト者の存在の基本的な要素であり、人生の中で自分の居場所を見つけるための大切な要素です。ありがとうございました。

(この訳は暫定訳であり、カトリック中央協議会発行書籍に掲載された時点で差し替えます。)

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