教皇フランシスコ、2023年1月4日一般謁見演説 14. 霊的同伴

 

教皇フランシスコ、2023年1月4日一般謁見演説
識別についての連続講話

14. 霊的同伴

 愛する兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 講話に入る前に、名誉教皇ベネディクト十六世の弔問にお越しになった皆さんとともに、講話の名人であった名誉教皇を思い起こしたいと思います(訳注:ベネディクト十六世は前年十二月三十一日に帰天し、葬儀ミサはこの講話の翌日一月五日に執り行われた。追悼のために多くの信者がバチカンを訪れていた)。名誉教皇の鋭くも繊細な思想は、自己言及的なものではなく、教会的でした。わたしたちがイエスに出会う場に同伴していたいと、あのかたはつねに望んでおられたからです。イエス、十字架につけられて復活したかた、生きておられるかた、主であるかたこそ、教皇ベネディクト十六世が、わたしたちの手を引いて、導いてくださっていた目的地です。信じる喜びと生きる希望をキリストのうちに見いだすことができるよう、教皇ベネディクト十六世がわたしたちを助けてくださいますように。
 本日の講話をもって、識別をテーマにした連続講話は終わります。識別の過程にきっと役立つ、必ず役立つ、助けとなるものについての講話をして、締めくくろうと思います。数ある助けとなるものの一つが、霊的同伴です。これはまず、己を知るために大切なものです。己を知ることは識別に不可欠な条件である―これについてはすでに考察しました。独りで鏡に映る自分の姿を見ても、それは必ずしも助けにはなりません。映し出される像を曲解できるからです。けれども、ほかの人の助けを借りて、鏡に映る自分の姿を見るならば、これは大きな助けになります。その人があなたにありのままを―その人が正直であるならば―伝えてくれるからです。そうしてあなたを助けてくれます。
 内なる神の恵みは、必ずその人の本性に働きかけます。福音のたとえを思い出せば、恵みはいつもよい種、本性は土地にたとえられます(マルコ4・3―9参照)。まず第一に、自分のいちばん敏感な部分、弱い部分、評価されたくない部分、そうした傷つきやすい部分を分かち合うことをおそれずに、自分を知ってもらうことが大事です。自分を知ってもらう―人生という旅路に同伴してくれる人に自分をさらけ出すことです。自分の代わりに決断してくれる人ではありません。同伴してくれる人です。傷つきやすい部分は、実は真に豊かな部分です。わたしたちには、傷つきやすい部分がたくさんあります。皆そうです。それは真に豊かな部分であり、そこを大事にし、受け入れなければなりません。その部分を神に差し出せたなら、優しさ、いつくしみ、愛がもてるようになるからです。自分の弱さを感じることのできない人たちは不幸です。その人たちは無情で独裁的です。対して、自分の弱点を謙虚に認めている人は、他者に対して理解があります。あえてこういいますが、このもろさが人間らしさです。荒れ野でのイエスの三つの誘惑の一つ目、飢えに関連するものが、この弱点を、取り除くべき悪、神のようになるための妨げとして奪い取ろうと試みるものであったのは偶然ではありません。ですがこれは、わたしたちのもっとも貴重な宝物です。まさに神は、わたしたちをご自分に似たものとするために、わたしたちの弱さを完全に分かち合いたいと望まれました。十字架を見てください。神は、まさに弱い者そのものとなられるまでに身を低くされました。ご降誕の場面を見てください。人間のいちばん弱い者として来てくださいました。わたしたちの弱さを分かち合われたのです。
 そして霊的同伴は、それが聖霊に従ってのものならば、自分自身について考えるうえでの、また主との関係についての、その人の思い違いを、たとえそれが深刻なものであっても、解いていくための助けとなってくれます。福音書には、イエスによって明らかにされ、解放となる会話の例が数々書かれています。たとえば、サマリアの女性との会話を思い出してください。わたしたちはこれを何度も何度も読んでいます。読むたびに必ず、その教えに触れ、イエスの優しさを知ります。ザアカイとの会話を、罪深い女との会話を、ニコデモとの、そしてエマオに向かう弟子たちとの会話を思い浮かべてください。そこにある、主の歩み寄り方を考えてみてください。真にイエスと出会った人々は、心を開くこと、自分の傷つきやすい部分、弱点、もろさを見せることを恐れません。このように、自分を分かち合うことが、救いの体験に、無償で受け入れられるゆるしの体験となるのです。
 だれかを前に、自分が生きてきたものについて、または探し求めているものについて語ることで、自分自身が明瞭になってきます。自分の中に潜み、しつこく立ち現れて、困惑させることも少なくなかったさまざまな思いが鮮明に見えてきます。希望が見えないときに、次のような思いが何度浮んだことでしょう。「何もかも、だめだった。わたしなんて価値がない。分かってくれる人なんていない。どうせだめ、もうおしまい」。何度こんなふうに思ってしまったでしょう。間違っていて毒になる考えが、だれかとともに検証することで解き明かされていきます。そうしてわたしたちは、ありのままで、主に愛され、大切にされていると感じるようになり、自分も主のためによいことができるのだと実感するのです。物事の異なる見方や、自分の中にずっとあり続けていた恵みのしるしを、驚きをもって見いだすからです。自分の弱さをだれかと、人生の同伴者、霊的生活の同伴者、霊的生活の師―信徒であれ、司祭であれ―と分かち合い、まさしくこういってもよいのです。「わたしがどうなっているか見てください。みじめなわたしです。これこれ、こんなふうになっています」と。すると同伴者はこたえます。「それですね、わたしたち皆に、そうしたことがありますね」。このやり取りのおかげで、自分の中のことがはっきりして、その根はどこにあるかが見えてくるので、乗り越えられるようになるのです。
 同伴者は、主の代わりではありませんし、当人に代わって何かをするわけではありません。そうではなく当人と並んで歩み、当人が、自分の心の中―まさしく神が話しておられる場―にうごめくものを読み取れるよう、励ましを与える人です。霊的同伴者は、霊的指導者と呼ばれることもありますが、わたしはこの言い方は好きではありません。霊的同伴者というほうがよいと思います。霊的同伴者は、あなたにこう告げる人です。「いいですよ、でもこの部分を見てご覧なさい。この部分が見えますか」。そういって、見落としてしまったかもしれない部分に、あなたの注意を向けます。そうして時のしるしを、主の声を、誘惑者の声を、乗り越えられない困難の声を、よく聞き分けられるよう助けてくれます。ですから独りで歩まないことがとても重要です。アフリカのことわざがあります。アフリカには部族の神秘思想があるからですが、このようなことばです。「早く行きたいなら、独りで行きなさい。確実に行きたいなら、人と一緒に行きなさい」。連れ立って行きなさい、仲間と行きなさい―。大事なことです。霊的生活においては、自分のことを分かってくれて、助けてくれるだれかに同伴してもらうほうがいいのです。そしてそれが、霊的同伴です。
 こうした同伴は、そこで師弟の間柄となり霊的兄弟のきずなを味わえたなら、双方にとって豊かな実を結ぶでしょう。自分たちが神の子どもだと気づくのは、自分たちが兄弟姉妹であり同じ父をもつ者だと分かるときです。ですからぜひ、歩を進める共同体の一員であってほしいのです。わたしたちは独りではありません。動きのある、民族に、国に、都市に属しています。教会に属し、小教区、何らかの集団、……ともかく、旅する共同体に属しているのです。人は独力で主のもとに行くのではありません。それでは進めません。それを、しっかり理解しなければなりません。中風の人がいやされる福音箇所にもあるように、わたしたちはしばしば、自分を前に押し出してくれるほかのだれかの信仰によって、支えられ、いやされています(マルコ2・1―5参照)。だれもが時に内的に中風を患い、そのもどかしさから脱却するのを助けてくれるほかのだれかを必要としているのです。人は独力で主のもとに行くのではない、そのことを胸に刻みましょう。別のときには、ほかの兄弟姉妹のために、その責務を引き受ける側になります。同伴者となって、ほかの人を助けるのです。師弟や兄弟的つながりの経験になっていなければ、同伴は、非現実的な期待や勘違いを生じさせ、赤子のような依存に陥らせるものとなってしまうでしょう。しかし霊的同伴とは、同じ神の子として、兄弟姉妹として行うものなのです。
 おとめマリアは識別の名人です。―多くを語らず、多く耳を傾け、すべて心に納めておられます(ルカ2・19参照)。聖母の三つの姿勢は、多くを語らず、多く耳を傾け、すべて心に納める、です。そして数少ない聖母のことばは印象的です。たとえばヨハネの福音書には、マリアのごく短いことばがあります。これはいつの時代も、キリスト者が受け止めるべきことです。「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」(2・5)。いい話があります。昔、高齢の、とても善良で敬虔なご婦人の話をうかがったことがあります。神学を学んだわけでもない、まったく飾らないかたで、こういわれました。「聖母がつねに何をされているかご存じですか」と。わたしが、分かりませんが、あなたに優しくしてくれたりとか、あなたを呼んでおられたりとかでしょうかというと、「そうじゃないわよ。聖母はこうしているのよ」といって、指さすポーズをしたのです。何のことだか分からなかったので、「どういう意味ですか」と尋ねました。するとそのかたは「指で、ずっとイエスを示しておられるのよ」と答えました。すばらしい、みごとですね。聖母マリアは、ご自分のためには何も求めず、ただイエスを指し示しておられます。イエスがいいつけたら、そのとおりにしなさい―。それが、聖母の姿です。マリアは、主がそれぞれの心に語っておられるのをご存じで、イエスのことばを行動や選択に生かしてほしいと望んでおられます。マリアはそのやり方をだれよりもご存じでした。だからこそイエスの人生の決定的な瞬間に立ち会っておられます。その極め付きが、十字架上での死という究極の時です。
 愛する兄弟姉妹の皆さん。これにて識別についての連続講話は終わります。識別は技術であり、身に着けることのできる技術で、固有の規範があります。しっかりと覚えたなら、よりいっそう美しく、まっすぐ筋を通して、霊的経験を歩んでいけるでしょう。何より、識別は神からのたまものです。自分はもうベテランで、自分のことは自分でできると勘違いせずに、つねに願わなければならない恵みです。主よ、人生の折々に、なすべきこと、知るべきものを見極める、識別の恵みを与えてください。見極める恵みをお与えください。識別を助けてくれる人を、わたしに与えてください。
 主の声は、必ず聞き分けることができます。唯一無二の特徴があるからです。困難なときでも、落ち着かせ、励まし、安心させる声です。福音書は、止むことなく言い続けています。「恐れることはない」(ルカ1・30)。天使がマリアにかけたこのことば、何と美しいのでしょうか。「恐れることはない」、「恐れるな」、これこそが主の特徴です。「恐れてはならない」、「恐れるな」。主は、今日も言い続けておられます。「恐れることはない」。主のことばに信頼すれば、人生という勝負にしっかりと向き合えるようになり、また、他者を助けることができるはずです。詩編が歌うとおりです。そのみことばは、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび(119・105参照)―。
(2023年1月4日、パウロ六世ホールにて)

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