司教総会開会式における教皇大使の挨拶:シノドスとシノダリティ 2023年2月13日

司教総会開会式における教皇大使の挨拶 2023年2月13日 兄弟である司教の皆さま  皆さまとお目にかかり、皆さまの2023年通常総会の議案から示唆されたいくつかの考えを共有できることは、わたしにとってつねに喜びです。ご […]

司教総会開会式における教皇大使の挨拶
2023年2月13日

兄弟である司教の皆さま

 皆さまとお目にかかり、皆さまの2023年通常総会の議案から示唆されたいくつかの考えを共有できることは、わたしにとってつねに喜びです。ご紹介したい論考は、以下の、「シノドスとシノダリティ」です。

 おそらく皆さんは、「それが今回の総会の諸テーマとどう関係するのか」と尋ねられることでしょう。わたしの論考は、議案に書かれていることからではなく、むしろ議案に明示的に書かれていないことから生まれるものです。

 実際、聖職者の生涯養成、司教協議会事務局の刷新、学校教育委員会、2022年度の決算、典礼の諸課題などが議論されます。

 わたしは自問します。今日、日本のキリスト者と教会の生活に影響を及ぼしている問題は何でしょうか。

 批判するつもりは毛頭なく、わたしはただ、第3千年期において神が教会に期待する道としての、シノダリティの道を教えてくださっている教皇フランシスコの教導職を伝えたいと思っています。この道は、第二バチカン公会議が『教会憲章』の中で「神の民である教会」のモデルとカテゴリーにおいて示したように、教会のアイデンティティ、構造、使命の見直しを伴うものです。わたしの挨拶は教会論の講義というわけではなく、共通した考察をするための刺激に過ぎません。

 最近、「シノドス」と「シノダリティ」についてよく耳にするようになりましたが、この二つのことばは何を意味しているでしょう。

 一つ明らかなことがあります。「シノドス」と「シノダリティ」は同義ではありません。「シノドス」は具体的な出来事であり、「シノダリティ」は教会生活のいくつかの特性を示す概念です。「シノダリティ」とは、教会が生きて働く、いやむしろ、教会が生きて働くべき、特定の形態です。

 「シノドス」には始まりと終わりがあり、「シノダリティ」は今日の教会の宣教スタイルです。多くの「シノドス」は、おそらく「シノダリティ」なしで開催されました。

 したがって、もしわたしたちがシノダリティとはどういうことかをよく理解したければ、『教会憲章』第2章に戻り、司教、司祭、修道者、男女信徒を含む、神の民というカテゴリーに立ち戻らなければなりません。教皇、司教、司祭、助祭、修道者について、たとえば「第3奉献文」にあるように、別個の現実として語ることは、依然として不適切であるように思われます。「聖なる父よ、……わたしたちの罪のゆるしとなるこのいけにえが、全世界に平和と救いのためになりますように。地上を旅するあなたの教会、教皇○○○○、わたしたちの司教○○○○、司教団とすべての奉仕者を導き、あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください」。しかし、贖われた人々の中には、教皇、司教、その他の人々も含まれているのではないでしょうか。聖アウグスティヌスが言ったように、わたしは個人として、あなたのための一人の司教であり、あなたとともにいる一人のキリスト者だと感じています。

 では、シノダリティとは一言で言えば、何を意味するのでしょうか。国際神学委員会の文書「教会の生活と宣教におけるシノダリティ」(2018年)がそれをよく明らかにしています。


教会における通常の生き方、働き方としてのシノダリティ

 シノダリティは「教会論に関する論文の章、ましてや流行、スローガン、わたしたちの会議で使われたり開発されたりする新しい用語」などではなく、教会の本性、形態、スタイル、使命を表現しています。

 「教会の構造的側面」として、また「神が第3千年期の教会に期待する旅」として、すべての人は、それぞれが教会の中で担っている役割の中でそれを築くように求められており、それは、「偶発的にではなく構造的に」、教会生活のあらゆるレベルでそれを促進することによって実現されるものです。

 教会のシノダリティを自らの教皇職の親石とした教皇フランシスコの教導職に照らして、「シノドス的教会」を特徴づけるものを、当然不完全な形ではありますが、総合的に概説することができるでしょう。

 教会は以下の場合に、シノドス的です。

1.個人として、また共同体として祈りながら生きる、神のことばを読み、それを熱心に聴くことを、教会生活の中心、そしてあらゆる司牧活動の中心に置く限りにおいて、愛と信仰のあかしのうちに成長するとき。

2.聖霊に注意深く耳を傾け、司教も信者も含んだ神の民が、彼らのうちに住む「信仰の感覚(sensus fidei)」のおかげで、今日聖霊が「各教会に何を言っているか」を識別し、福音を告げ知らせる新たな方法、手段、言語を見出すことができるとき。

3.役割や奉仕職におけるいかなる区別に関して、すべての洗礼を受けた人の尊厳と平等は本来的で基本的な事実であると考えることを実践の中で示すとき。

4.心の耳をもち、現代の男女、とりわけキリストの肉である貧しい人々、そして苦しむすべての人々の喜びと希望、悲しみと苦悩に耳を傾け、彼らと分かち合うとき。

5.人間の痛み、喜び、希望をご自分のものとして感じ、人間を解放するために「降りて行く」(出エジプト3・7−8)神のように、識別し、しかし共感し、恐れず、偏見なく、勇気をもって、今日の世界を見つめるとき。

6.宣教者として出向いていく姿勢をとり、香部屋に居残り、孤立して閉じこもるエリート主義のグループを形成することを好まず、教会のさまざまな構成部門の中で、兄弟的姉妹的な姿でともに歩み、将来世代のために、よりすばらしく、より人間らしい価値を生み出すよう貢献するとき。

7.譲歩としてではなく、権利として男女信徒の声に耳を傾け、共同体生活へ参加するために組織の成熟を刺激し促進するとき。

8.聖職者がつねにかつ唯一の「資格のある主体」であり、「残りの信者たち」がつねにかつ唯一の当該「主体」の行為を受け入れる立場にあるような「福音化の図式」は、不適切であると考えるとき。

9.信仰において誤ることができない神の民は、主が教会のために開く新たな道を識別するための自分の「鼻」をもっているので、「教えの教会(ecclesia docens)」と「学びの教会(ecclesia discerns)」の区別をあまり厳格なものとしないとき。

10.司祭と信徒の間の対話と交流を促し、最終的に「山小屋の持ち主」はつねに司祭となるリスクを回避する、トップダウンでも歪曲でもない、道具と構造を備える方法を知っているとき。

11.対話と識別によって、絶えず表現され、調和に至るまで円滑にされるべき意見の多様性を排除するのではなく、誰もがかけがえのない貢献を与える多様性の調和の中で、一致して歩むとき。

12.中世の教会で使われ、使徒職の実践や聖伝と考えられていた、「すべての人に関係するものは、すべての人によって取り扱われ承認されなければならない」という原則を、まだ見ぬ方法で再びはやらせ、教会生活の3分野(信仰、秘跡、統治)に適用するとき。

13.ある時には、前に立って道を示して人々に希望を支え、別の時には、ただいつくしみ深い親密さを示しながら皆の中に立ち、またある状況では、人々の後ろを歩き、取り残された人々を助ける司牧者が奉仕しているとき。

14.それによって福音化の新しい段階が始まり、著しく変化した世界と文化に対してより適した新たな形で福音をのべ伝える責任を負った、第二バチカン公会議を、完全に引き受けるためにあらゆるレベルで活動するとき。

 結論として、まず最初に来る(全員)神の民というカテゴリーの豊かさをわたしたちは再発見しなければならないと思います。次に司教たち(一部)が来て、最後にローマの司教(一人)が来るのです。これは、三つの異なる別々の教会的主体であるという現在の概念を超えるものです。

 それによれば、「諸教会の教会」というモデルの中で普遍性は実現されるという、地方教会の教会論の受容を真剣に理解することが重要です。つまり、各地方教会が、独自の味わいと特徴を持ったキリスト教生活のスタイルの中で教会として存在し、行動する歩みの中で生み出すべき道を受容する、ということです。

 共同責任として権限を執行するわけです。つまり、祈り、聞き、分析し、対話し、識別し、助言するという組織的な祈りとコミュニケーションのダイナミズムを通して、聞き、識別し、入念に検討し、決定するという合意の文化をもつのです。シノドスの旅の目的は、単に会って互いをよく知ることではなく、司牧上の決定を下せるようともに働くことです。

 結論として、わたしは次のように言いたいと思います。つまり、シノドスや司教協議会といった司教たちの組織に参加することによって、神の民が教会位階の中に組み込まれなければならないのではなく、教会位階こそが神の民の中に身を置き、すべての信者の声に耳を傾けながら、信者の一人として生きていくよう招かれているのです。

教皇大使
レオ・ボッカルディ大司教

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