世界代表司教会議第16回通常総会 第2会期 黙想会① 2024年9月30日(月)ティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)復活:暗闇の中で主を探し求める ヨハネ20・1−18

シノドス黙想会が、9月30日(月)と10月1日(火)バチカンで開かれ、昨年の第1会期に続き、ドミニコ会前総長のティモシー・ラドクリフ神父が参加者に向けて、4回の講話を行いました。以下はその第1回です。(ラフ翻訳版) 黙想 […]

シノドス黙想会が、9月30日(月)と10月1日(火)バチカンで開かれ、昨年の第1会期に続き、ドミニコ会前総長のティモシー・ラドクリフ神父が参加者に向けて、4回の講話を行いました。以下はその第1回です。(ラフ翻訳版)

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世界代表司教会議第16回通常総会 第2会期
黙想会①
2024年9月30日(月)
ティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)

復活:暗闇の中で主を探し求める ヨハネ20・1−18



 昨年の黙想会では、互いに耳を傾ける方法について話し合いました。どのようにすれば、わたしたちは希望をもって互いの違いに向き合い、心を開くことができるのか。いくつかの障壁は崩れ去り、わたしたちは意見の異なる相手を敵対者としてではなく、同じ弟子、同じ探求者として見るようになり始めました。
 今年は、「宣教するシノドス的教会となるには?」という新しい視点に焦点を当てます。しかし、わたしたちが行うすべてのことの基礎は同じです。忍耐強く、想像力に富み、知的で、心を開いて聴くことです。前会期の黙想会と同じ話を繰り返そうかとさえ思いましたが、皆さんは気づくでしょう! ハーバート・マッケイブ神父(ドミニコ会)は、著名な神学会で講演をすることになっていたことに土壇場で気づきました。彼はファイルから講演録を取り出し、バイクに飛び乗り、時間ぎりぎりに到着しました。ノートを開くと、彼は1年前にも同じ学会で同じ講演をしていたのです。わたしは、「どう、対処したんですか?」と尋ねました。「ジョークは省きました。誰もが覚えているのはジョークだけだから」。皆さんの記憶力はそれより良いでしょう。
 深く耳を傾けることは、今年わたしたちが行うすべてのことの基礎です。『討議要綱』によれば、それは「教会の最初の行為」(60項)です。詩人のエイモス・オズは祖父についてこう語っています。「祖父は、ただ丁寧に話を聞くふりをしながら、彼女が話を終えて黙ってしまうのをせっかちに待っていたのではありません。相手の話に割って入って、彼女のために話を終わらせることもしませんでした。彼女の話を要約して別の話題に移ろうと切り出したりしませんでした。相手が話し終えたら自分が返事をしようと頭の中で準備している間、相手の話を宙に浮かすようなことはしませんでした」1。神と兄弟姉妹に耳を傾けることは、聖性の原理です。

 今年は、「暗闇と死の陰に住む」世界に対して、「復活した主とその福音をのべ伝えるという一つの使命」(『討議要綱』序)を振り返ることにしましょう。(ルカ1・79)。わたしたちの黙想の指針として、聖ヨハネの福音書から四つの復活の場面を取り上げることにしましょう。「暗闇の中で探し求める」、「鍵のかかった部屋」、「岸の見知らぬ人」、「主との朝食」。それぞれが、十字架につけられたわたしたちの世界において、宣教するシノドス的教会となるためにはどうすればよいかについて、何らかの光を与えてくれます。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(20・1)。これは今日のわたしたちも同じです。わたしたちの世界は、1年前よりもさらに暴力で暗くなっています。彼女は愛する師のご遺体を探しに来たのです。わたしたちもまた、主を探すためにこのシノドスに集まっています。西洋では、神はほとんど姿を消してしまったように見えます。わたしたちが直面しているのは、無神論というよりも、蔓延する無関心です。懐疑主義が多くの信者の心をも蝕んでいます。しかし、すべてのキリスト者は、夜明け前のマグダラのマリアのように、主を探し求める人なのです。

 わたしたちもまた、暗闇の中にいると感じているかもしれません。前会期の総会以来、このシノドスの参加者を含め、非常に多くの人々が、何かが達成されていくのかどうか、と疑念を表明しています。マグダラのマリアのように、「なぜわたしたちの希望を奪ってしまったのか。わたしたちはシノドスに多くを期待していたのに、おそらく、ことばが増えるだけかもしれない」と言う人もいます。

 しかし、暗闇ではあっても、主はすでにマグダラのマリアとともに、そしてわたしたちとともに園にいます。イエスは生前、こう語っています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12・24)。その種は、アリマタヤのヨセフとニコデモによって庭の豊かな土に蒔かれ、誰も使ったことのない新しい墓に蒔かれました。それは今まさに花を咲かせようとしているのです。夜明けは近い。マグダラのマリアのように、わたしたちも主との出会いに心を開くなら、探し求めるもの以上のものを受け取るでしょう。
 園でわたしたちは、3人の探求者に出会います。マグダラのマリア、最愛の弟子、そしてシモン・ペトロです。それぞれがそれぞれの方法で主を探し求め、それぞれの愛し方があり、それぞれの空虚さをもっています。これらの探求者はそれぞれ、希望の幕開けにおいてそれぞれの役割をもっています。ライバル意識はありません。彼らの相互依存は、シノダリティの核心を体現しているのです。わたしたちは皆、彼らの少なくとも誰か一人に自己投影することができます。皆さんにとってはどの人でしょうか?
 トマス・ハリックは、教会の将来は、わたしたちの社会の道を探し求める人に手を差し伸べることができるかどうかにかかっていると主張しています。これらの人々はしばしば「無である人」です。わたしは、瞑想する修道女を意味しているのでなく、無宗教であると主張する人々を指しています。彼らはしばしば自分の人生の意味を探し求めています。ハリックは、キリスト者はこのように、「求める人とともに求める人となり、問う人とともに問う人」となることを厭わない人間でなければならないと書いています2
 復活に関する記述はすべて問いに満ちています。マグダラのマリアは2度、なぜ泣いているのかと尋ねられました。彼女はご遺体をどこに置いたのかと尋ねます。なぜ墓は空なのかと。マルコの記述では、女性たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16・3)と尋ねています。ルカの復活の記録は問いで満ちています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。イエスはエマオに向かう弟子たちに「その話は何のことですか」と尋ねます。すると弟子たち全員はこうなります。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(24・38)。復活は、事実を淡々と語るものではなく、問いかけとしてわたしたちの人生に飛び込んでくるものです。
 深い問いは情報を求めるものではありません。それは、わたしたちを新しい生き方へと誘い、新しいことばで語ることを求めています。詩人ライナー・マリア・リルケはこう書きました。「重要なのは、すべてを生きることだ。今、問いを生きなさい。そうすれば、いつか遠い未来に、気づかぬうちに、少しずつ答えに近づいていくだろう」3
 復活とは、短い中断のあとに再び始まるイエスのいのちではなく、死が克服された新しい生き方なのです。そしてそれは、福音書の中で、まずわたしたちの生活の中に、同じように生きることを許さない、切迫した問いとして炸裂するのです。同じように、わたしたちも教会における女性の役割など、多くの問いを抱えたままこのシノドスに臨んでいます。これらは重要な問いです。しかし、単に何かが許可されるか拒否されるかという問いと見なすことはできません。それでは、これまでと同じような教会であり続けることになってしまいます。わたしたちが直面する問いは、福音書にあるようなものであるべきです。福音書は、わたしたちが復活のいのちを、ともにより深く生きるよう招いているのです。
 そして、わたしたちの心の中にあるもっとも深い問い、わたしたちを新しいいのちへと誘う不穏な問いを、あえてこのシノドスにもち込まなければならないのです。
園にいた3人の、主を探し求める人のように、わたしたちが教会としての新たなあり方を見出すためには、互いの問いに耳を傾けなければなりません。もしわたしたちが何の問いももたなければ、あるいは表面的な問いしかもたなければ、わたしたちの信仰は死んでしまいます。今日は出席していませんが、ある大司教がドミニコ会の修練者たちに言いました。「聖トマス・アクィナスの『神学大全』を必ず読んでください。そこには、カトリック教会を批判するすべての人々に対する5万6千の答えが含まれています!」4。聖トマス・アクィナスがこれを聞いたら、恐れおののくでしょう。伝説によれば、幼少時の彼の最初の問いは「神とは何か」であり、その聖性さゆえに、彼はいかなる答えも拒否しました。というのも、わたしたちは未知のものとして神と結ばれているから、と彼は言ったそうです。
 尊敬の念をもって、恐れずに互いの問いに耳を傾けるなら、わたしたちは聖霊に生きる新しい道を見出すでしょう。昨年も申し上げましたが、バグダッドのドミニコ会・アカデミーのモットーは「ここではいかなる問いも禁じられない」です。わたしたちはマグダラのマリアであり、最愛の弟子であり、シモン・ペトロです。わたしたちを待っておられる主を見つけるのは、ともにいるときだけなのです。
 それぞれ、主を探し求める人を見て、現代の探求者に手を差し伸べることについて、彼らがわたしたちに何を教えてくれるかを見てみましょう。マグダラのマリアは優しい愛に魅かれてています。それは地に足のついた、肉体的な、肉と血の愛です。彼女は最愛の主のご遺体をいたわりたいと願っています。マグダラのマリアは、この世の傷ついた人々への慈愛に駆られながら生きるすべての人々の象徴です。コルカタの路上で主のご遺体を探し求めたマザー・テレサ。ハワイでハンセン病に苦しむ人々にいのちをささげたモロカイ島の聖ダミアン。
 キリストを知らないにもかかわらず、苦しんでいる人々へのあわれみに満ちている、何百万という人々のことも考えてほしいと思います。マグダラのマリアのように、彼らは傷ついた人々のご遺体を探しています。世界は涙に満ちています。前会期の総会4日目、ハマスが中東を戦争に陥れる、恐ろしい残虐行為を行いました。ウクライナやロシアでも、スーダンやミャンマーでも涙が流されているように、何十万人もの若者の死と負傷で人々は泣いています。教皇によって招集された研究部会の一つは、「貧しい人々の叫びに耳を傾ける」と称されています。「泣いている人の叫びに耳を傾ける」とも言えます。マグダラのマリアは彼らの保護者です。
 その時、マリアは自分の名前を耳にします。慈愛に満ちた、優しい愛に突き動かされて生きているマリアが、その空虚さを自分の名で満たされるのはふさわしいことです。彼女はご遺体を探しましたが、夢見た以上のもの、永遠に生き続ける愛を見つけたのです。わたしたちの神は、いつもわたしたちを名前で呼んでくださいます。ヤコブよ、あなたを造られた方、イスラエルよ、あなたを造られた方、主はこう言います。「恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43・1)。
 彼女の名は出会い、主の臨在を意味します。洗礼式で最初に行われるのは、名を尋ねることです。「あなたの名前は何ですか」、あるいは「あなたは子どもにどんな名前をつけますか」。名前は、子どもたちを区別するために貼られる単なるラベルではありません。それでは、わたしは「子ども4号」になってしまいます。わたしたちの名前は、わたしたちが唯一無二の存在として神に大切にされていることのしるしなのです。「親愛なる兄弟、親愛なる姉妹の皆さん、国勢調査の過程で歴史を変えた神にとって、あなたは番号ではなく、顔です。……キリストは番号ではなく、顔を見ています」。
 そして、わたしたちの使命もまた、暗闇の中でわたしたちを探してくださる神のみ名を指し示すことです。そして、互いの名と顔を大切にすることでもあります。わたしたちは、このシノドスで互いに存在し合ってこそ、神の臨在を媒介することができるのです。グレゴリー・ボイル神父(イエズス会)は、ロサンゼルスでギャングの若者たちと働いています。彼の奉仕職の秘訣は、彼らの名前を知ることです。彼らの正式な名前やニックネームだけでなく、母親が怒っていないときに彼らを呼ぶ名前もです。若いルーラを名前で呼ぶと、「わたしが感電させたのかと思ったでしょう。自分の名前が知られること、呼ばれること、大声で呼ばれることに喜びを感じて全身が痙攣するのです。横断歩道を通る間中、ルーラは振り返ってわたしを見つめ、微笑み続けました」5

 暴虐な政権は名前と顔を消し去ります。アウシュビッツで、聖マキシミリアノ・コルベ神父は「囚人16,670号」となりました。ロシア大統領はつねに、自分に勇敢に反対したアレクシー・ナヴァルニーの名前を呼ぶことを拒んできました。彼はただ「ある人物」だったからです。同様に、ネルソン・マンデラはアパルトヘイト政権反対の顔となりました。そして、彼が投獄されたとき、彼の顔の画像を公開することは禁止されました。国民の記憶から消されたのです。したがって、数十年の獄中生活のあと、彼が浜辺を歩くことが許されたとき、誰も彼のことを知りませんでした。彼の顔はその力を奪われていたのです。
 このシノドスは、わたしたちが互いを思いやりをもって見つめ、わたしたちと同じように探求する人々を見るならば、恵みの瞬間となるでしょう。教会内の団体の代表や、あの恐ろしい保守派の枢機卿や、あの恐ろしいフェミニストではありません! そうではなく、傷つきながらも喜びを感じている、主を探し求める仲間なのです。正直に告白すると、わたしは名前を覚えるのが苦手です。それはわたしの言い訳です。お許しください!
 しかし、マグダラのマリアの優しい愛はいやしを必要としています。イエスは彼女にこう命じました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。学者たちはこのことについて、いくつかの不合理な説明をしていますが、もっともありえないのは、イエスの傷がまだ痛んでいた、ということです! イエスが言っているのは、マリアはイエスを私物化してはいけないということです。イエスの存在は彼女のものではありません。復活は、イエスの共同体の誕生です。「神の民とは、単に洗礼を受けた人たちの総体では決してなく、むしろ、教会の『わたしたち』」(『討議要綱』3項)なのです。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(20・17)。これはヨハネ福音書で初めて弟子たちを「兄弟たち(フラテッリ・トゥッティ)」と呼んでいます! 彼女は自分の愛をあらゆる排他性から解放しなければなりません! そうすることで、マリアは弟子たちに福音を伝える準備ができるのです。「わたしは主を見ました」。これはわたしたちの課題でもあります。わたしの「イギリス人イエス」や、わたしの「ドミニコ会イエス」にすがりつくのではなく、わたしたち全員が兄弟姉妹となる主にすがりつくのです! イエズス会でさえもそうです。わたしたちが「わたしたち」と語ることを学ぶなら、このシノドスは実りあるものになるでしょう。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方」。
 そして、主が愛した弟子がいます。彼にも彼の愛し方があり、虚しさがあり、人生の光の消し方があります。彼は、息を切らし、喘ぎながら、年老いたペトロを暗い墓に先に入らせましたが、天使たちの間の空虚な空間を見て、信じました。これが見る力を与える愛です。Ubi amor, ibi oculus(サン=ヴィクトルのリカルドゥス)。愛のあるところに眼がある。彼は愛の目で見るから、愛の勝利を見ます。彼の福音は鷲の福音であり、その目は太陽の光をまっすぐに見つめ、盲目にならないと信じられています。彼の探求はこの上なく神学的なのです。
 わたしは今年、エルサレムの「聖書研究所」で2週間を過ごしました。兄弟たちは死の脅威にさらされながら、ガザから40分のところに住んでいます。彼らはそこにとどまり、神のことばを学び、教え、祈っています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1・5)ことのしるしとして、彼らはそこに留まっているのです。マグダラのマリアの空虚は、名――臨在――の呼びかけによっていやされ、愛する弟子の空虚は、空の墓に輝く光によっていやされます。だから彼は、ブレーズ・パスカルが言ったように、わたしたちの人生の意味、わたしたちの心の中にある神の形をした空虚さを理解しようとするすべての人々を体現しているのです。もちろん、キリスト教の思想家たちもそうですが、わたしたちの苦しみの暗闇の中に光を見出そうと奮闘するすべての人たち、つまり、暗闇の勝利を信じようとしない詩人、芸術家、映画製作者たちもそうなのです。聖トマス・アクィナスが異教徒のアリストテレスに対してそうであったように。聖トマス・アクィナスは、「真理は誰によって語られようと、すべて聖霊から出たものである(omne verum, a quocumque dicatur, est a Spiritu Sancto)」6と書いています。

 そしてシモン・ペトロがいます。彼の虚しさは、失敗という、重荷の中でもっとも重いものです。彼は友を否定しました。きっと彼は、岸で最後に語られるいやしのことばを待ち望んでいるのでしょう。だから、わたしたちの司牧的使命も、失敗と罪によって重荷を負っているすべての人に寄り添い、わたしたちが受けたゆるしと、「わたしのようなあわれな者を救ってくださった方」の驚くべき恵みを、わたしたち自身が発見したことを分かち合うことなのです。「わたしはかつて失われたが、今は見出され、盲目だったが、今は見える」。わたしたちの使命は、ペトロのように、わたしたちも必要としているあわれみ深い方の名を呼ぶことです。
 ですから、この最初の復活の場面では、主がわたしたちの人生における三つの空虚に対応する三つの形の探求にどのように応えるのかを見ることができます。つまり、存在を探し求める優しい愛、意味と光を求める探求、そしてゆるしを求める探求です。それぞれの探求者は他の探求者を必要としています。マリアがいなければ、彼らは墓に来なかったでしょう。マリアは、主が現存されると宣言します。最愛の弟子がいなければ、彼らは墓の空虚さを復活として理解することはできなかったでしょう。ペトロがいなければ、彼らは復活が、あわれみの勝利であることを理解することはできなかったでしょう。
 それぞれが、前会期の総会で何らかの形で排除されたと感じたグループを表しています。マグダラのマリアはまた、教会において女性がいかにしばしば正式な権威ある地位から排除されているかを思い起こさせます。正義とわたしたちの信仰が求める前進の道を、わたしたちはどのように見つければよいのでしょうか? 彼女たちの探求はわたしたちの探求でもあります。前会期の総会では、多くの神学者たちも疎外感を感じていました。なぜわざわざ来たのだろうと思う人もいました。彼らがいなければ、わたしたちはどこにも行けません。そして、シノドス的な道を歩むことにもっとも抵抗感を抱いていたのは、司牧者たち、とりわけあわれみの牧者としてのペトロの役割を分かち合っている小教区で働く司祭たちでした。彼らなしには、教会は真の意味でシノドス的になることはできません。
 ほとんどすべての人が、自分たちは排除された存在だと感じているとき、被害者意識を競い合うようなことはあってはなりません! シノドスが、わたしたちが主を愛し、主を探し求めるあらゆる方法を必要としているように、わたしたちの時代の道を探し求める人を必要としているように、たとえ彼らがわたしたちと信仰を共有していなくても、主を暗闇の中で探し求めることは、これらすべての証人を必要としているのです。
 これがどのように使命の中であふれるのか? 以下はアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリのことばです。そのことばは、彼が実際に書いたものよりずっと意義深いものです。「もし船を造りたいのなら、あなたの男女の部下を集めて命令したり、何をしなければならないか、どこに何があるか、一つひとつ細かく説明したりしてはならない。……船を造りたいのなら、男女の部下の心に、海への欲望を生み出させなさい」7。人々に無限の世界を味わわせれば、彼らは自分なりの方法で船を造り、大海原へと旅立つでしょう。
 これらの証人はそれぞれ、無限の愛に触れています。マグダラのマリアは無限の優しさに触れ、「最愛の弟子たち」は限りない意味を求めることに心を動かされ、ペトロは7回ではなく7の70倍ゆるす、限りないあわれみを求めることに心を動かされます。もしわたしたちが互いの無限の渇望に自らを開くなら、わたしたちは使命の船をこぎ出すでしょう。エフェソの信徒への手紙のことばにあるように、わたしたちは、「すべての聖なる者たちとともに、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(3・18, 19)なります。
 今日の午後、わたしたちは再び弟子たちを暗闇の中、鍵のかかった部屋で見出すでしょう。