世界代表司教会議第16回通常総会 第2会期 黙想会➁ 2024年9月30日(月)ティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)鍵のかかった部屋 ヨハネ20・19−29

シノドス黙想会が、9月30日(月)と10月1日(火)バチカンで開かれ、昨年の第1会期に続き、ドミニコ会前総長のティモシー・ラドクリフ神父が参加者に向けて、4回の講話を行いました。以下はその第2回です。(ラフ翻訳版) 黙想 […]

シノドス黙想会が、9月30日(月)と10月1日(火)バチカンで開かれ、昨年の第1会期に続き、ドミニコ会前総長のティモシー・ラドクリフ神父が参加者に向けて、4回の講話を行いました。以下はその第2回です。(ラフ翻訳版)

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世界代表司教会議第16回通常総会 第2会期
黙想会➁
2024年9月30日(月)
ティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)

鍵のかかった部屋 ヨハネ20・19−29



 午前中わたしたちは、弟子たちが暗闇の中を走り回り、主を探し求めている様子を振り返りました。最愛の弟子は見て信じます。夜が明けました。今は夕方で、また暗闇に戻り、彼らは鍵のかかった部屋で動けなくなっています。
 はじめ、朝が暗いのは、彼らがまだ復活の主を見いだせなかったからです。夕方が暗いのは、復活した主の生きた息吹である聖霊に、まだ満たされていないからです。イエスは空の墓から飛び出しました。彼らはまだ鍵のかかった部屋という、墓の中にいます。創世記によれば、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた1。人はこうして生きる者となった」(2・7)。そこでイエスは永遠のいのちの息を彼らに与えます。「聖霊を受けなさい。あなたがたはゆるす罪はゆるされ、あなたがたが留めおく罪は留めおかれます」。彼らは復活のいのちを共有しているので、宣教に遣わされる準備ができています。
 今日の午前、わたしたちは、シノドス的教会の宣教が、マグダラのマリア、最愛の弟子、ペトロのように、復活した主を探し求める人となるようわたしたちに求めていることを知りました。ですから、わたしたちもまた、現代の探求者たちに寄り添わなければなりません。しかし、わたしたちが復活の宣教者となるのは、神のうちに生かされている場合だけです。今、人はゾンビを信じるでしょう。イレネウスのことばを思い起こしてください。Gloria Dei, homo vivens,=十全に生きている人間こそが、神の栄光です。ラザロのように、わたしたちは鍵のかかった部屋からわたしたちを呼び出す主の声を聞くのです。「出て、生きなさい」。
 聖性とは、神のうちに生かされていることです。シャルル・ド・フーコーのいとこで、飲食を楽しむことが好きだった人物は、サハラ砂漠での長年の暮らしの後、パリに一時帰国したシャルルが訪ねてきたときのことをこう語っています。「彼の目の輝きと、とりわけその非常に謙虚な微笑みが、彼の全人格を支配していました。……彼からは信じられないほどの喜びが発せられていました。……わたしは、自分の満足の総和が、この修道者の完全な幸福に比べればほんのわずかな重さにもならないことを目の当たりにして、羨望ではなく、奇妙な尊敬の感情が自分の中に湧き上がってくるのを感じたのです」2
 アビラの聖テレジアについて、「自己を超えたいのちを熱狂的に意識していた」3と言われています。あるいはまた、ビデオゲームに興じるハンサムなイタリアのティーンエイジャー、カルロ・アクティスを思い浮かべてほしいと思います。ミレニアル世代は、真に生きている同世代を、ここに見ることができます。だから、わたしたちの課題は、若返らせる聖霊を深く呼吸できるように助け合うことです! 80歳になったわたしにとって、ちょっとした挑戦です!
 リーダーシップの最初の仕事は、群れを小さな羊小屋から聖霊の新鮮な空気へと導くことです。リーダーシップは、閉ざされた部屋の鍵を開けます。弟子たちは恐れによって閉じ込められています。そこで、わたしたちが神のうちに生かされ、豊かないのちの福音をのべ伝える人となることを妨げる恐れについて考えてみましょう。

 わたしたちは皆、傷つくことへの恐れを知っています。わたしたちの中には、自分が認められ、受け入れてもらえないのではと、神経質になりながらこの総会に参加する人もいます。教会に対するわたしたちの大切な希望が、軽蔑されるかもしれません。わたしたちは透明な存在だと感じるかもしれません。拒絶される危険を冒してまで話す勇気があるでしょうか。壮大な肩書きと奇妙な服装を身にまとったバチカンの世界に慣れていなければ、威圧感を感じるかもしれません。復活の主は、傷ついた方ですから、わたしたちはあえて傷つく危険を冒すのです。主はその手と脇腹を彼らに示します。
 復活祭の叙唱はさらに踏み込んで「死に打ち勝って永遠に生きる(sed semper vivit occisus.)」と告げます。わたしの兄弟である、ハーバート・マッケイブ神父(ドミニコ会))のことばを思い出してみましょう。「もしあなたが愛するなら、あなたは傷つき、殺されることさえあるでしょう。もし愛さないなら、あなたはすでに死んでいるのです」。神に生かされるということは、傷を恐れないということです。
 エルサレムにあるわたしたちの修道院は、ダマスカス門の近くにあります。ここは旧市街がアラブ人居住区に面している、緊張感のある場所です。若いユダヤ人のグループが目隠しをしてそこに立ち、ハグを望む人に「フリーハグ」を提供していました。無償の憎しみに立ち向かう無償の愛。彼らは、ハグの代わりにナイフを受けるかもしれないという危険を冒したのです。

 アラン・ペイトンは、勇敢にも、アパルトヘイト反対運動を展開した南アフリカの小説家です。彼の登場人物の一人はこう語ります。「わたしが天に昇るとき(間違いなくそのつもりですが)、大審判官はわたしに尋ねるでしょう。『あなたの傷はどこですか』。そして、もしわたしが何もないと答えれば、彼は言うでしょう。『何も戦わなかったのですか?』」4。’
 フィリピンで、わたしはハンセン病の病を負った女性に出会いました。彼女は人生の大半を、ドミニコ会の分派である聖マルティン兄弟会が運営するハンセン病療養所で過ごしました。彼らの多くもハンセン病に苦しんでいます。治癒しても、彼女はその場所を離れることを恐れました。人々は彼女の傷跡を見て怖がったのです。そしてある日、彼女はあえて外に出て、アジア中を旅し、ハンセン病に苦しむ人々を外に招いて生きるという新しい使命を発見したのです。
 主がわたしたちに平安を与えてくださったからこそ、わたしたちは傷つくリスクを受け入れることができるのです。映画『神々と男たち』は、1990年代にテロ暴力が勃発したアルジェリアから逃れることを拒否したトラピスト修道士たちの物語です。共同体の年老いたの医師である、リュック修道士は、「わたしは死を恐れない、自由な人間だ」と言います。ドミニコ会の古いミサ儀式書では、司祭は平和の挨拶をささげる前に、キリストの流された血のカリスに接吻していました。
 最初の創造は「光あれ」で始まりました。新しい創造は「平和あれ」で始まります。このことばを口にしないわけにはいきません。マハトマ・ガンジーは、自分の部屋にイエスの絵を飾っており、そこにはエフェソの信徒への手紙から、「キリストはわたしたちの平和」(2・14)と引用されています。イエスは神の安息日であるのです。初代教会で、キリスト者の墓には、「平和のうちに」と書かれていました。わたしたちは、何ものにも破壊されることのないキリストの平和の洗礼を受けています。何も恐れる必要はないのです。
 60年代後半、オックスフォードにあるわたしのドミニコ会共同体は、狂気の集団に襲われました。イエズス会ではありません! 午前2時、修道院の正面の窓が二つの小さな爆弾ですべて吹き飛ばされたのです。わたしたちは全員起こされ、急いで駆けつけました。警察が来て、救急車も来ました。院長のファーガス・カー神父だけがまだ眠ったままでした。一番若い修練者が彼の部屋に送られました。「ファーガス、ファーガス、起きろ、爆弾テロがあったんだ」。「誰か死んだか? 怪我人は?」「いない」「あっちへ行って。寝かせてくれ。朝になったら考えよう」。リーダーシップとしての、わたしの最初の教訓でした。

 勝利は得られます。処刑人がディートリッヒ・ボンヘッファーを迎えに来たとき、彼の友人であったチチェスターのベル司教への最後のメッセージはこうでした。「司教に伝えてくれ。……勝利は確かだ」。兄弟たちの一人が性転換するかもしれないし、会計係が金をもち逃げするかもしれないし、教会が爆破されるかもしれない! しかし、キリストは死に、復活し、再び来られるのです。

 神の平安は、わたしたちが平安を感じることを意味しません。わたしの仲間である修練者、サイモン・ツグウェル(ドミニコ会)はこう記しました。「平安という主観的な感情が必要なのではありません。わたしたちがキリストのうちにいるのであれば、平安のうちにいることができるのであり、したがって、平安を感じないときも動揺することはありません」5。おそらくわたしたちの多くにとって、もっとも深い課題は、自分自身と平和であることです。わたしたちは、悩み、分裂した自分自身の心、自分自身の嫌な部分を見つめる勇気があるでしょうか? 自分自身の中にある恐れや嫌悪を他人に投影してしまうことは誘惑です。ツグウェルはまた記します。「平安は、冷静な自己認識とともに訪れます。……平和への道は、真実を受け入れることです。わたしたちが受け入れを拒否するわたしたちの断片はすべて敵となり、わたしたちを防御的な姿勢に追い込みます。そして、捨て去られた自分自身の断片は、急速に周囲の人々の中に化身を見出すでしょう」6
 教会に対するわたしたちの激しい愛は、逆説的に、わたしたちを狭量にすることもあります。わたしたちが愛する伝統を損なう、破壊的な改革によって教会が害されるのではないかという恐れです。あるいは、教会が、わたしたちの憧れである、広く開かれた家にならないのではないかという恐れです。教会は、教会を愛する、しかし違った形で愛する人々によって、しばしば傷つけられるのです! 聖エフレムは、カトリック教会は「保護される大きな場所をもつ大きな教会」7であると言いました。オックスフォードで教鞭をとっていたドイツのルター派の一人の神学者に会ったことがあります。彼はこう言いました。「カトリック信者はプロテスタントになってきている、と危惧しています」。ときにわたしたちは、「両方とも」というカトリックの幅広さを忘れてしまうことがあります。わたしたちが愛する真理は、ロバート・バロン司教が書いているように、「宇宙と同じくらい広く、イエスという人物と同じくらい具体的」8なのです。完全な愛は恐れを追い出します。教会観が違う人たちがもつ恐れを追い出しましょう。教会は主のみ手の中にあり、神は陰府の門がこれに打ち勝つことはないと約束したのです。
 ナポレオン時代、慌てたモンシニョールが心配そうに国務長官のコンサルヴィ枢機卿に会いに来て言いました。「猊下、ナポレオンは教会を滅ぼそうとしています」。それに対して枢機卿は答えました。「わたしたちでさえ、それに成功したことはありません!」。
 わたしたちの教会への愛は、まったく違った形で、わたしたちを狭い世界の中に閉じ込め、教会のへそを見つめ、他者を観察し、その逸脱を見抜き、糾弾する準備をさせます。教皇フランシスコは選出される前、主は扉を叩き、香部屋から出るよう要求されるだろうと述べました! もちろん、わたしたちの中には変化を切望する人もいますが、だからといってわたしたちを小さな教会の世界に閉じ込めてはなりません。それではつまらない! 神は、宿営の外の、限りない地平をもつ山の頂きに現れるのです。
 わたしたちがこれらの部屋から解放されるには、勇気だけではなく、神のいやしを授けるゆるしが必要です。「あなたがゆるす者の罪はゆるされ、あなたが留めおく者の罪は留めおかれる」。

 罪によってわたしたちは、自己愛と党派政治の牢獄に閉じ込められます。まるで、放蕩息子の弟を家に迎え入れるパーティに、不機嫌で参加しない兄のように。ハーバート・マッケイブ神父は再びこう語ります。「わたしたちの本性は、何か新しく恐ろしいものへとわたしたちを呼び寄せます。……わたしたちは、自らを捨て、自らを超えることでしか、充実感や幸福や繁栄を見出せない種類の存在なのです。わたしたちは愛の中で、自らを失う必要があります。未知の世界に飛び込み、慣れ親しんだ安全なものを捨て、旅や探求に出るよう求められているのです。しかし、わたしたちはリスクを冒すことを好みません。神に似せて造られることを恐れているからです。こうしていのちへの招きに応えられないこと、この信仰の失敗を、罪と呼ぶのです」9

 ですから、今回のシノドスは組織的な変革について交渉する場ではなく、いのちを選び、回心とゆるしを求める場なのです。主は、わたしたちが避難し、他者を閉じ込めている小さな場所からわたしたちを呼び出してくださるのです。19世紀のオラトリオ奏者、フレデリック・フェイバーが作曲した聖歌はこう告げ知らせます。

 「神のあわれみは幅広く、それは海の広さのようである」。

 キリストの平和が、わたしたちの心に宿り、主を十字架につけた暴力を溶かしてくださるよう祈りましょう。ドロシー・デイは、「本当の戦いは、無神論に対するものというよりも、暴力に対するものです」10と主張しました。彼女は、「キリスト者は、武器によって、力によって、暴力によって、信仰を守ろうとするとき、わたしたちの主に向かって、『十字架から降りてこい。神の子なら、自分を救ってみろ』といった人たちと同じです」11。ですから、今回のシノドスにおいて、わたしたちの心の中にあるすべての暴力、すなわち暴力的な考えやことばに打ち勝とうではありませんか。わたしたちの世界文化は暴力的な想像力を培っています。「18歳になるまでに、アメリカのティーンエイジャーは平均して20万件の暴力行為と16,000件の殺人事件をメディアで目撃しています12。多くの場合、暴力は美化され、ユーモラスなものとして扱われます。暴力は常態化し、ビデオゲームで悪魔のような敵をやっつけるような無害なものにさえ思えます。このような、一見罪のない娯楽は、暴力的な想像力をはぐくみ、破壊に罪悪感を抱かせなくなります。なぜなら、サイバー空間では、リアルなものは何もないからです」13
 キリストのからだは、残酷な非難、風刺画、憎悪に満ちた毒々しいウェブサイトによって醜くされています。教会で何らかの形でリーダーシップを発揮している人なら、誰でもこのような経験をしたことがあるでしょう。わたしは修道会総長のとき、一人の管区長が愛人である修道女と鉄道貨車の中で同棲する許可を与えた、と非難されました!
 わたしたちの暴力的な世界は、多くの人々からいのちの息吹さえ奪っています。たとえば人種差別の罪は、文字通り人々の息の根を止めるものです。10年前、ニューヨークのスタテン島でアフリカ系アメリカ人のエリック・ガーナーが警察に首を絞められて殺されたとき、「息ができない」ということばが11回繰り返され、野次馬の携帯に録音されました。このことばはアフリカ系アメリカ人の叫びとなっており、彼らの抑圧を象徴しています。これは、2018年10月2日、トルコの領事館で殺害されたサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギの最後のことばでもあります14。わたしたちは互いに呼吸する空間、議論のための酸素を与え合いましょう。
 この不滅の平和とは、わたしたちが完全に調和して生きることを意味するわけではありません。わたしたちがこの総会に集まっているのは、そうではないからです。しかし、いかなる不和も、キリストにあるわたしたちの平和を破壊することはできません。トーマス・マートンは『アジア日誌』にこう書いています。「わたしたちはすでに一つになっています。しかしそうではないと思い込んでいます。そして、わたしたちが取り戻さなければならないのは、わたしたちの本来の一致です。わたしたちがあるべきは、わたしたちがわたしたちであることです」15
 しかし、イエスが現れたとき、トマスは外出していました。彼は、恐れを知らなかったからでしょうか。ラザロが病気になったとき、トマスはエルサレムに上って、イエスと一緒に死んでもいいと宣言したのです(11・16)。トマスは真理に情熱を抱く人です。イエスの傷に指を入れない限り、「絶対に、決して信じない」16のです。そして、主を見て、「わが主、わが神」と熱く告白します。この情熱的な弟子もまた、わたしたちを小部屋から誘い出します。
 「わが主、わが神」。これは文字通り神学的な表明であり、神についてのことばです。この総会のテーマは、宣教するシノドス的教会です。この宣教の中心は、わたしたちの教えを伝えることです。マグダラのマリアが名を呼ばれた時、彼女は「ラビ」、先生と答えます。聖マタイ福音書の最後のことばで、イエスは弟子たちをすべての民族に教えるようにと送り出しています。意味に飢えた世界に、わたしたちはどのようにキリスト教の教えを伝えればいいのでしょうか?
 パリの貧しい郊外では、若いカトリック信者が、教会の教えについてイスラム教徒の友人と話ができるように、教義を教えてほしいと欲しています。今年の初めには、集会「郊外であなたの信仰を抱きしめよう(Assume ta foi en banlieue.)」が開かれました17
 若者たちは教会の教えの豊かな内容に飢えています。「わが主、わが神」。いい人で、わたしたちが互いに親切にすることを望んでいるイエス像を提供するだけでは、彼らは満足しないでしょう。

 わたしたちの社会は、教えに対する深い偏見に悩まされています。アップルの共同創業者であるスティーブ・ジョブズは、2005年にスタンフォード大学で行った入学式のスピーチで、このことを要約しました。「皆さんの時間は限られています。だから他者の生き方でその時間を無駄にしないでください。教義に囚われないでください。それは、他者の思考の結果で生きることになります」。もちろん、その人間は現代の陳腐な教義を繰り返しているだけで、自分の頭で考えていたわけではないのです
 G.K.チェスタトンはこう断言しました。「人間には2種類しかありません。教義を受け入れそれを理解している人間と、教義を受け入れそれを理解していない人間です。……木々は教義をもちません。カブは実に広い心をもっています」18。現代の教えのいくつかは、まさに酸素のない息苦しい鍵のかかった部屋です。相対主義、あらゆる種類の原理主義、物質主義、国家主義、科学主義、宗教原理主義などです。それらは人々を、小さな恐怖に満ちた想像力の中に閉じ込めてしまいます。

 しかし、わたしたちの信仰の偉大な教え、要するに、わたしたちの信仰箇条は、わたしたちの心の扉を開いてくれます。それらはわたしたちを小さな答えの向こう側へと押しやり、無限の愛と真理であり、永遠にわたしたちの理解を超える方への、果てしない探求へと駆り立てるのです。わたしが若い修道士だった60年代後半、すべてが崩壊しそうになったとき、わたしたちのほとんどが修道会にとどまったのは、信仰箇条の輝くような美しさを垣間見たからです。若い人たちは、それ以下のものでは満足できないでしょう。

 わたしたちはどのようにして、現代の人々を、わたしたちの信仰の広々とした空間へと誘うことができるでしょうか。たとえば、三位一体の輝かしい教義、すなわち、もっとも地に足のついた実践的な教えを、どのように彼らの想像力に触れさせることができるでしょうか。そのためには神学者の助けが必要です。

 神学者もまた、神の民との会話を恐れて、学問という鍵のかかった部屋に閉じこもることがあります。わたしが若い修道者としてパリに留学していたとき、他のドミニコ会士に、博士号は何ですかと尋ねました。彼はこう答えました。「若い兄弟よ(彼はわたしよりちょうど1歳年上でした)、説明しようとは思いません。あなたには理解できないでしょう」。20年後、わたしは総長としての訪問で再訪し、彼に会っても何も言いませんでした!

 もちろん、聖パウロがいうところの「信仰による従順」(ローマ1・5)にわたしたちを導いてくれる学業に優れた神学者、すなわち釈義学者、文献学者、歴史学者も必要です。そうでなければ、わたしたちは聖書を神のためではなく、わたしたち自身の目的のために用いてしまうでしょう。しかし、この厳しい学問の鍛錬は、結局のところ、同時代の人々との会話に役立つものであり、神の愛の無限の神秘への旅に同行するためのものなのです。
 前会期の総会の翌日、教皇フランシスコは、他の信仰箇条をもつ人々と慈善的に対話する神学を求めました。彼はアルゼンチン・カトリック大学の学生たちに語ったことばを引用しました。「机上の神学に甘んじてはなりません。思索の場を未知の領域にしましょう。……良い神学者は、良い牧者のように、人々や街角の匂いを嗅ぎ、その内省によって、男女の傷に油やワインを注ぐのです」19
 優れた神学は、固く閉ざされた部屋の扉を開きます。トマスのように、それは情熱的で恐れを知りません。新しい語り方、新しい言語を受け入れます。宣教するシノドス的教会は、大胆かつ謙虚に教える勇気をもつのです。