シノドス黙想会が、9月30日(月)と10月1日(火)バチカンで開かれ、昨年の第1会期に続き、ドミニコ会前総長のティモシー・ラドクリフ神父が参加者に向けて、4回の講話を行いました。以下はその第4回です。(ラフ翻訳版) 黙想 […]
黙想会④
2024年10月1日(火)
ティモシー・ラドクリフ神父(ドミニコ会)
復活その2:朝食 ヨハネ21・15−25
ここでついに、シモン・ペトロがイエスを否定して以来初めて、二人は互いに語り合いました。焼かれているのは、魚なのか、ペトロなのかは定かではありません! イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねます。イエスを否定したことについては一言も出てきません。重要なのは今、今日なのです。ルカシュ・ポプコ神父(ドミニコ会)は次のように記しています。「イエスは過去について尋ねたのではないことに注意してください。彼は説明や弁解を求めませんでした。第2に、彼は、今後わたしを愛しますか?と、未来についても尋ねません。わたしを愛すると約束してください、と約束を求めることもしません。彼は現在のことを尋ねたのです! わたしたちはとても頻繁に、過去の失敗や未来の空想にとらわれて、愛についての問いや、それに対応する答えを避けてしまうのです」1。
『聖務日課(教会の祈り)』は日々、わたしたちに対する神の願いから始まります。「ああ、今日こそ、わたしの声に耳を傾けてください」。今日という日は唯一存在する日であり、神にとっての現在は、この現在です。シノドス期間中の今日、わたしたちは主と互いの声に耳を傾けなければなりません。遅れてはなりません。そうすれば、今日が新たな始まりとなるでしょう。マルティーニ枢機卿は亡くなる直前、突然こう言って、友人のダミアーノ・モデナ神父を驚かせました。「キリスト教はまだ始まったばかりです」。
なぜ遅れるのでしょう? 猜疑心と惰性がわたしたちの足を引っ張るのです。わたしのアイルランドの兄弟たちは、アイルランド語には明日を表す単語が32個あると冗談を言いますが、そのどれもがmañana(スペイン語の「明日」)のような切迫感をもちません! ペトロは岸で主を見たとき、ためらうことなく湖に身を投げ、陸に向かって泳ぎました。Carpe Diem(今を生きろ)。
朝食時の会話は、おそらく聖書の中でもっとも繊細でデリケートなものでしょう。ペトロが以前、炭火の前でイエスを否定したことを恥じているような雰囲気が漂っていますが、はっきりとそのことが語られることはありません。イエスは優しさと、おそらく微笑みさえもって、ペトロが3度否定したことを3度言い直せるように、そのスペースを開いてくれます。わたしたちは、人の言動の愚かさを思い知らせるでしょうか。それとも、彼らが前に進めるように、そっとそのスペースを開いてあげるでしょうか?
「この人たち以上にわたしを愛しているか」。ヨハネがきっと知っていたであろう、マタイ福音書、マルコ福音書では、ペトロは、恥となった夜にまさにそう主張していました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。(マルコ14・29)。わたしがあなたを一番愛しています! そして今、彼は再びそう言います! ここでは、アガペーとフィリアという、愛を表す異なることばの意味について多くの議論があります。わたしは、ペトロがイエスを愛しているだけでなく、最高の愛、フィリア、友情でイエスを愛していると主張していると確信しています。「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」。これこそが、ペトロができなかったことです。「聖書研究所」のアンソニー・ジアンブローネ神父(ドミニコ会)は、ペトロの三つの返事を次のように訳しています2。
「そうです、主よ、わたしは彼らが愛するよりも、そしてわたしが他の人たちを愛するよりも、あなたを愛しています。あなたはそれ以上の存在であり、あなたはわたしの友です」。
そして、「フィレオ(愛しています)とわたしは言いましたし、本心からそう思っています。あなたはわたしの友です」。
結局のところ、「あなたは何もかもご存じです。わたしが、友情の完全な愛をもって愛していることを知っておられます」。
軽い皮肉に注目してください。ペトロは「あなたはご存じです」と言います。その悲しい夜、ペトロはイエスを知っていることを否定しましたが、イエスはペトロを知っているのです。初代教会の伝説によれば、彼はネロ朝の迫害の間に再び失敗を犯します。ローマを逃れたペトロは、その街へと向かうキリストに出会いました。彼は主に尋ねます。どこに行くのですか(Quo Vadis)? 「再び死ぬためです」。ペトロはついに、2度告白して否定した、すべての愛のうち最高のものを示したのです。結局ペトロは、人生の終わりに、愛の誓いに忠実でした。このことは、わたしたちが失敗したときに勇気を与えてくれます。
さて、ここに今回のシノドスにとって、もっとも重要な教訓があります。イエスはペトロを信頼し、群れを託しました。教会は、シモン・ペトロに対する神の無償の信頼という岩の上に築かれているのです。多少の失敗はあっても、わたしたちは、互いを信頼する勇気があるでしょうか? このシノドスはそれにかかっているのです。
一例を挙げれば、教理省教令『フィドゥーシア・スプリカンス―祝福の司牧的意義について』が世界中の多くの司教たちに苦悩と怒りを引き起こしたことは周知の事実です。このシノドスのメンバーの中には、裏切られたと感じた人もいました。しかし、わたしたちが主のように、たとえ傷つけられたとしても、互いに信頼し合うというリスクを負ってこそ、教会は信頼に足る共同体となるのです。主は、わたしたちが何度も何度も主を裏切りながらも、毎回のエウカリスチアで、何度も何度もわたしたちの手にご自身をゆだねてくれます。性虐待の危機は、これが他者、とりわけ未成年者を危険にさらす、無責任な信託であってはならないということを、わたしたちに痛切に教えました。そうではなくて、傷つくという、わたしたち自身のリスクを受け入れる信託でなければなりません。
世界的な信頼の危機です。どの政党の政治家も、他の政党の政治家は信用できないと言い、もちろん誰も政治家を信用しなくなっています。世界中で若者が民主主義への信頼を失っています。フェイクニュースやメディアの操作によって、真実が伝えられていることを信用できなくなっています。わたしたちはますます多くの説明責任、より多くの検査や報告を求めますが、誰かが何かを企んでいるのではないかという疑念を和らげることはできません。信頼の危機は、他の誰もがそうしているのだからと、人々が信頼に値しない行動をとるよう誘います。アレクサンドリアのクレメンスは3世紀に、わたしたちは「神の宿営に入るという、すばらしい危険を冒さなければなりません」3と書いています。神の宿営とは、たとえそれが愚かに思えるときでも、主と互いを信頼する人たちの宿営のことです。「傷つくリスクは、2度と冒さない」とは言えません。
ある農夫がアシジの聖フランシスコに駆け寄り、あなたはフランシスコかと尋ねました。その農夫は言いました。「多くの人々があなたに信頼を寄せているのですから、見かけ通りの人でいてください」。
このことばはわたしを悩ませます。せめて彼らさえ分かってくれていれば! 何百万人もの人々がもはやわたしたちを信頼していません。今回の総会を通して、互いから始めて、わたしたちは再び信頼を築かなければならないのです。
わたしがドミニコ会総長に選ばれたとき、前任者の素晴らしいアイルランド人に助言を求めました。彼は言いました。「まず、人里離れた場所を旅行するときは、つねにトイレの紙を後ろポケットに入れておくこと(とても賢明です!)。第2に、兄弟たちを信頼してください。修道会はあなたを信頼することを決議しました。あなたは兄弟たちを信頼しなければなりません。管区長たちはときとして、あなたを困惑させ、あなたが同意しない決定を下すこともあります。例外的な場合を除いて、彼らを信頼してください」。聖ドミニコは修練者たちを信頼し、シトー会士たちは、彼らは全員逃げ出してしまうと確信していたのですが、彼らを宣教に送り出しました。信頼は、ペトロの網を一つに結びつけるのです。
管区長の一人は立派な兄弟でしたが、アルコール依存症と闘っていました。驚いたことに、彼は再任されたのです。わたしは、管区総会がリスクを冒して選挙を承認したことを誇りに思いました。わたしはアメリカ人ドミニコ会士が飲酒の問題を抱えていたことを思い出しましたが、それで彼は医師の診察を受けに行きました。医師は告げました。「神父様、あなたができる最高の策は、酒を完全に断つことでしょう」。兄弟は答えました。「先生、わたしには最高のものはふさわしくありません。次善の策は何ですか?」。
結局のところ、すべては自らをわたしたちにゆだねてくださる神への信頼の上に成り立っているのです。たとえそれがどのようなものであるか予想できず、わたしたちが望むようなものでないかもしれないとしても、神の恵みによって、このシノドスが実を結ぶことをわたしたちは信じています。
テイヤール・ド・シャルダンの詩。
何よりも、神のゆっくりとしたわざを信頼することだ。
わたしたちは何事においても、遅滞なく終わらせようとして、自然と焦ってしまう。
途中の段階をスキップしようとする。
未知のもの、新しいものへと向かう途中であることに焦ってしまう。しかし、それがすべての進歩の法則である
いくつかの不安定な段階を通過しながらなしとげられる――
非常に長い時間がかかることもあるのだ4。
もう一人のイエズス会士、グレゴリー・ボイル神父(わたしは寛大な気分だ!)はこう言います。「わたしたちの神は、待つ神です。わたしたちにできないわけがありません。大きな転換にはそれなりの時間がかかります。それを待ちましょう」5。
イエスはペトロに羊を牧するよう託しました。わたしの羊、とイエスは呼び、あなたがたの羊とは言いません。ペトロはよい羊飼いであり、羊たちを羊小屋という狭い場所から連れ出し、狼が待ち構えるこの世の広い牧草地で餌を与えるのです。彼は自分の群れをそれぞれの名前で知っており、羊たちは彼の声を信頼します。王であるキリストのうちに洗礼を受けた人は皆、牧者となるよう招かれています。家族の小さな群れ、学校の生徒たち、隣近所の人々に対する牧者です。両親、教師、信徒の指導者たちは皆、自分の羊の名前を知り、信頼を得る牧者となるよう招かれています。わたしたちは皆、主の羊の世話をするという特別な責任を負っているのです。
しかし、イエスはペトロに、よい羊飼いとして共同体における特定の役割を与えます。これはとくに、わたしたち叙階された司牧者の役割であり、狭い内向きな教会的な羊小屋から、広く開かれた世界へと羊たちを導くことです。香部屋から公共の場へ。しかし、しばしば、シノドスの道をもっとも疑い、抵抗するのは聖職者であることが分かっています。ペトロとその後継者たちがこう行動する、どういった権限があるのでしょうか?
エジンバラ大学のサラ・パルビス教授は、「ペトロの権威は、悔い改めた罪びとの権威である」と書いています6。ペトロが神の恵みの牧場に群れを導くことができるのは、彼自身が明らかに神の恵みを必要としているからです。教皇フランシスコは2015年のインタビューでこう語っています。「わたしは罪びとです……確かに、そうです。主があわれみをもって見つめてくださる罪びとです。ボリビアで勾留者に語ったように、わたしはゆるされた人間なのです」7(ルカ5・8参照)。これは羊飼いたちの、喜びに満ちた権威です。わたしたちはゆるされた人間です。優越の重い仮面や、恐ろしいほど聖なるものであるふりをする重荷を捨てることができるのです。司祭は、エウカリスチアの冒頭で、わたしたち全員を一致に導き、「わたしたちの罪」を思い起こさせます! これがわたしたちの一致であり、恵み深いゆるしなのです。ほとんどの修道会で、制服を受けるとき、「あなたは何を求めているのですか」と問われます。その答えは、「神のいつくしみと、あなたのいつくしみです」となります。
悔い改めた罪びとの喜びは、神の愛に満ちた裁きの夜明けの光の中に足を踏み入れ、自分が完全に愛されていることを発見することです。バジル・ヒューム枢機卿は、こう述べました。「『裁きとは、いつくしみ深く、あわれみ深い神の耳に、わたしがこれまで語ることのできなかった人生の物語をささやくこと』8。……わたしたちの多くは、これまで誰にも語ることのできなかった物語、あるいはその一部をもっています。誤解されることを恐れたり、自分自身を理解できなかったり、隠された人生の暗黒面を知らなかったり、あるいは単に恥ずかしかったりするために、多くの人にとってそれはとても難しいことです……。いつくしみ深く、愛に満ちたその耳に、自由に、そして完全にささやくことができるようになれば、どんなに救われることだろう。結局のところ、それこそが、主がいつも望んでいることなのです」9。
岸で、ペトロはまだ、自分自身のゆるしの必要を語る準備ができていませんでした。いつかその日が来ます。ペトロがイエスを否定したことについての最初の記述はマルコの福音書にあり、それはしばしばペトロの回想録とも呼ばれています。聖マルコがペトロの失敗を知っていたのは、ペトロがそれをローマの共同体と共有していたからです。ネロ朝の迫害の間、教会はほとんど崩壊し、キリスト者たちは互いを裏切っていました。そのときペトロは、自分の失敗を認めたようです。「あなたは主を裏切った。わたしもそうだった」。『討議要綱』は、わたしたちはしばしば、神の民が聖職位階に対して責任を負うことを要求してきましたが、聖職位階も神の民に対して責任を負わなければならないとも述べています(75, 76項)。もっとも暗いときに、ペトロは自分の民に自らのことを説明しました。これがペトロの恥を喜びに変えたのです。これこそ羊飼いの一致の奉仕職であり、わたしたちが「あえて主の祈りを唱える」よう、一緒に集うのです。このように、聖職者のエリート主義とは、単に謙遜さの欠如ではなく、司祭としてのアイデンティティを否定することになります。それは、自分の仕事は花々を引き抜くことだと思っている庭師のようです。
ペトロは最後には、その最大の愛の行いを成し遂げます。「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」。司祭は神の友愛の奉仕者です。『討議要綱』は、司祭がしばしば「ある種の疲労感、とりわけ孤立感、孤独感、健全で持続可能な人間関係から切り離されること、あらゆるニーズに回答が求められることに圧倒されること」(35項)を口にしていると警告しています。シノドスは、すでに耐えがたいほど多忙な人々によって、なすべきことが一つ増えたように見えます。
司祭の誘惑は、一匹狼になって、何でも自分でやってしまうことです。しかし、これは司祭の召命である、友情への招きとは矛盾します。つまり、神の友であり、信徒との友情、周縁部にいる人との友情、司祭団の他の司祭との友情への招きです。聖大アントニオは、透明性を獲得したため、砂漠の中ですべての人の友となりました。ピーター・ブラウン教授はこう記しています。「彼はすべての人に対して、人を引きつける魅力とオープンさを放つようになり、弟子たち、巡回修道士たち、信徒の巡礼者たちの群衆に囲まれている彼の前に現れた見知らぬ人は誰でも、誰が大アントニオであるかを知るようになりました。彼は、他者に対する完全な透明性を獲得した心をもつ人物として、すぐに認識できる人でした」10。
だからこそ、透明性と説明責任の欠如は、司祭としてのアイデンティティの根幹を腐敗させるものです。罪びとであるペトロの透明性は、彼の権威の基礎であり、隠蔽は許されません。わたしたちはすべての罪を公然と告白することを期待されているわけではありませんが、少なくとも偽善者であってはなりません。神の民は、偽善以外のすべてを速やかにゆるすのです。
「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」。多くの司祭は、すべてをささげ、燃え尽き、疲れ果てて、自分のいのちをまさに捨てることを、実際現実に実感しています。英国のショーン・コノリー神父は若い頃、次のように書いていました。「ときおり、わたしは巨大なスポンジのように、彼らの困難や試練を吸収しているように感じます。問題は、多くの場合、自分自身を絞り出す場がどこにもないことで、だから、すべてがどんどん蓄積されていくのです」11。彼には、自分の人生を取り戻したいと思って、司祭職を辞めてしまった友が数人います。教師たちは、週の終わり、彼に叫びます。「よい週末を」。お願いですから、よい週末を過ごしてください! 彼は言います。「ときおり、金曜の午後に車で家に帰るとき、自分自身の生活を取り戻せたらいいんじゃないかな、と思うことがあります」12。
イエスは、「わたしが来たのは、あなたがたが生き延び、しかも豊かに生き延びるためである」とは言っていません。聖イレネオの次のことばを思い起こしましょう。「神の栄光とは、十全に生きている人間のことである(Gloria Dei est homo vivens)」。自分のいのちを捨てるとは、日記を捨てることとは違います。何でも自分自身でやってしまうことではありません。ラッツィンガー枢機卿は、ヨハネ・パウロ二世の葬儀の席で、次のことばを引用しました。「『他の人に帯を締められるだろう』。そして、この苦しむ主との交わりの中で、疲れを知らず、新たな熱意をもって、彼は、世の終わりまで続くその愛の神秘である福音をのべ伝えました(ヨハネ13・1参照)」。自分のいのちを捨てることは、一つの愛の行為であり、終わりのない仕事ではありません。友情とは、人々とともにいることを学び、彼らに同伴することを喜ぶことです。それは、イエスが娼婦や徴税人たちと祝宴を催したときのように、余暇と談笑を分かち合うことなのです。
だから、ペトロは悔い改めた罪びとの権威をもっているのです。しかし、この箇所では、これだけが唯一の権威ではありません。イエスはペトロに「わたしに従いなさい」と命じます。ペトロは、イエスが愛し、すでに主に従っている弟子を見ます。「この人はどうなるのでしょうか?」と、ペトロは尋ねます。「あなたに何の関係があるか?」と、イエスは答えました。イエスの愛する弟子には、その権威があります。彼は空の墓を見て信じました。わたしたちは彼の証言を研究しており、「彼のあかしが真実であることを知っている」(24節)のです。イエスは十字架上で、ご自分の母の世話をその弟子の手にゆだねました。
それぞれが相手の権威を尊重します。ペトロは、イエスが死ぬ前夜、誰が裏切るかをイエスに尋ねるよう、最愛の弟子に頼んだとき、その権威を認めました。ペトロを大祭司の家に入れる権威をもっていたのは、おそらく最愛の弟子でしょう。しかし、最愛の弟子もペトロに従います。彼は墓に駆けつけ、先に墓に着くのですが、ペトロが年長者であることを尊重し、先に墓に入れます。
牧者の役割とは、自らを慎み、世話をするすべての人の権威を尊重することです。誰もが何かを提供できるのです。ビンセント・ドノバン神父は、東アフリカのマサイ族とともに働く宣教司祭でした。長い間、彼は自分の司祭としての役割について悩んでいました。彼は次のことに気づいたのです。「自分は共同体の中でもっとも神学を知っている人間、神学者ではありません。共同体の説教者でも宣教者でもありません。預言者でもない。その共同体が将来できるようになるかもしれない、もっとも重要な貢献を実行できる人という意味で、彼は共同体の中で最重要メンバーでもないでしょう。しかし、彼は共同体全体の中心的存在であり、祈りであれ、奉仕活動であれ、共同体が行動できるようにする存在です。……彼は、外、すなわち普遍教会との一致のしるしとなりえます」13。
最愛の弟子の後継者とは、岸で見知らぬ人を見つけ、「主だ」と宣言するために目を開かれたすべての人のことです。コルカタのマザー・テレサは、コルカタの路上で死にゆく主を見ました。マグダラのマリアもまた、復活した主が最初に語りかけた人間として、使徒の中の使徒として、その権威を有しています。彼女の優しい愛は、主の臨在に出会うために彼女を開きます。トマスは、真理への情熱ゆえに権威をもっています。それぞれが他者に従うのです。ライバル意識は教会における優れた権威の敵となります。ある砂漠の聖なる隠修士は、悪魔の群れの攻撃をすべて退けました。しかし、サタンがやってきて、彼の耳元でこうささやきました。「あなたの兄弟はアレキサンドリアの司教になりました!」。聖なる隠修士は怒りを爆発させます。サタンは言いました!「そういうものです」。
ですから、このシノドスにおいて、わたしたちが互いの権威を識別し、それにゆだねることができますように。教会が彼らの権威を認め、その行使を委託するためには、どのような新しい奉仕職が必要でしょうか? 福音は、当時、権威をもって行動した多くの人々に光を当てています。今日、わたしたちも、そうできますように。というのも、今日は、わたしたちが有する唯一の日だからです。Carpe Diem!(今を生きろ)