2025年 四旬節教皇メッセージ(2025.3.5)

 

2025年四旬節教皇メッセージ
希望をもってともに歩んでいきましょう

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 灰を受ける悔い改めの式をもってわたしたちは、今年の四旬節の旅を信仰と希望を胸に歩み始めます。母であり教師である教会は、神の恵みに心を開くようわたしたちを招いています。罪と死に打ち勝った主キリストの復活の勝利を、大きな喜びをもって祝えるようになるためです。聖パウロにこう叫ばせたようにです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(一コリント15・54−55)。まさしく、十字架にかけられ復活したイエス・キリストこそ、わたしたちの信仰の中心であり、御父の最大の約束を信じるわたしたちの希望の保証です。そして、御父の愛する子キリストにおいて、約束はすでに実現しています。それは永遠のいのちです(ヨハネ10・28、17・3参照)1

 聖年の恵みにあずかる中でのこの四旬節に、「希望をもってともに歩む」ことの意味について、また、いつくしみをもって神がわたしたち皆に――個人としても共同体としても――呼びかけておられる回心の招きについて、少し考えてみたいと思います。

 初めは、「歩む」についてです。聖年のモットー「希望の巡礼者」が思い起こさせるのは、出エジプト記に描かれている、約束の地へと向かうイスラエルの民の長い旅路です。奴隷状態から自由へのこの険しい道のりをお望みになり導かれたのは、ご自分の民を愛し、その民につねに忠実であられる主です。聖書の出エジプトを考えるとき、現代にあって、自分や愛する家族のよりよい生活を求め、困窮や暴力から逃れようとして旅立つ兄弟姉妹のことを思わずにはいられません。ここで、回心の最初の呼びかけが生まれます。わたしたちのだれもが旅する者なのですから、だれもが自らに問わなければなりません。――こうした現状に自分は問いただされているだろうか。道を進んでいるのか、それとも恐れや絶望から硬直して動けなくなっているのか、楽な場所から抜け出せなくなってはいないだろうか。罪を犯したり自らの尊厳を貶めたりする状況から離れる道を探しているだろうか――。移民や移住者の具体的な現実に向き合い、それに実際にかかわって、御父の家へと向かうよりよい旅人となるため、神がわたしたちに何を求めているかを見いだすことは、四旬節のよい鍛錬となるでしょう。それは、旅する者皆にとって、よい「意識の糾明」です。

 第二は、「ともに」歩むについてです。ともに歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です2。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、ともに旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます3。ともに歩むということは、神の子としてともに有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、だれも置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩むということです(ガラテヤ3・26−28参照)。愛と忍耐をもって互いに耳を傾け合いながら、同じ方向に向かって、同じゴールを目指して、歩んでゆきましょう。

 この四旬節、神がわたしたちに求めるのは、生活において、家庭で、職場で、小教区や諸共同体において、他者とともに歩めているか、その声に耳を傾けられているか、自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈せずにいられているかということです。神の国のため、司教として、司祭として、奉献生活者として、信徒として、他者と協力して働くことができているか、主のみ前で自らに問うてみましょう。身近な人に対しても、遠くの人に対しても、具体的な振る舞いをもって受け入れる態度を示せているだろうか。他者が自分も共同体の一員と感じられるようにできているだろうか、社会の周縁に置き去りにしてはいないだろうか4。これが回心への第二の呼びかけ、つまりシノダリティへの転換です。

 第三は、約束に対する「希望をもって」ともに歩むについてです。希望は欺かない(ローマ5・5参照)――、この聖年の中心メッセージ5が、復活の勝利へ向けた四旬節の歩みの展望となりますように。教皇ベネディクト十六世が回勅『希望による救い』で教えるとおり、「人間は無条件の愛を必要としています。人間はこういわせてくれる確信を必要としています。『死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです』(ローマ8・38−39)」6。わたしたちの愛であり希望であるキリストは復活し7、栄光のうちに、生きて、治めておられます。死は勝利となり、キリスト者の信仰と大いなる希望は、キリストの復活にあるのです。

 ですから回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠のいのちを信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主はわたしの罪をゆるしてくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、だれ一人取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか――。

 姉妹の皆さん、兄弟の皆さん、イエス・キリストにおいて示される神の愛によって、わたしたちは欺くことのない希望(ローマ5・5参照)のうちに置かれています。希望は「魂にとって頼りになる、安定したいかり」8です。その希望のうちに教会は、「すべての人々が救われるよう」(一テモテ2・4)祈り、天の栄光の中で花婿キリストと一つに結ばれることを待ち望みます。アヴィラの聖テレジアの祈りはこうです。「希望しなさい、希望するのです。あなたはその日、その時を知らないのです。よくよく目を覚ましていなさい。あなたが確かなことを疑い、短い時を長く感じている間に、すべては矢のように過ぎ去るからです。」(『神への叫び』15・3)9

 希望の母であるおとめマリアが、わたしたちのために執り成し、四旬節の歩みをともに歩んでくださいますように。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2025年2月6日 聖パウロ三木と同志殉教者の記念日
フランシスコ

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